菊地成孔の映画蔓延促進法 第1回中編
菊地成孔の『イン・ザ・ハイツ』評(中編):掛け値無しに素晴らしい音楽について
クラーベとは?
「クラーベ」とは、わが国では、具体的な木製の打楽器名(二本の、拍子木に似た木の棒を両手で叩くアレ)だと思われがちだが、実際は中南米音楽の全てを律しているリズムの音形のことで、要するにそれが手拍子であろうと声であろうと、ガラクタの金属片であろうと何であろうと、よしんば具体的に出力していなかろうと、中南米の音楽の中で鳴り続ける<クラーベ>というパルスは、コミューンで共有されている神域からの導きといっても過言ではない。
4拍子の中に5打点あるので、「3×2(スリー・トゥー)」もしくは反転した「2×3(トゥー・スリー)」形になり、拍子だけではなくテンポも決定する。これ自体は、どなたでも聞いたことがあるはずだ。ラテン歌謡やラテンジャズ系のクラブミュージック、ラテン風味のポップス等々で、観客が全員で3×2や2×3のパターンを手拍子する、という演出は多い。
しかし前述、これは単なるショーアップでも、ジャンルミュージックに於けるキャンピーな記号でもなく、コミューンが共有する神域にある。筆者の友人のキューバ系のニューヨーカー音楽家たちは全員、「それが4拍子の曲ならば、世界中のどんな曲にでさえーーヴェートーヴェンのシンフォニーでさえーークラーベは聴こえる」と本気で訴える。それは、多く、サルサ(リン・マニュエルと同じプエルトリコ系移民=ニューヨリカンが70年代に創出したダンス音楽)の楽団が、一晩1クラーベだけで、つまり4拍子の、同じテンポの曲を夜通し演奏する「ラティーノの熱狂」を先導することにも現れている。
途中で箸休めのバラード(それにも、ゆったりしたクラーベは流れ続けている)や、3拍子の曲なども挟みつつ、基本的に、夜が始まれば明けるまで彼等を導くのは1クラーベである。
それは1曲が何時間にも及ぶ場合もあるが、多くは同じテンポの、同じクラーベの楽曲が何曲も演奏される形を採る。前述の箸休めは、クラーベに飽きたのではなく、むしろ不断の託宣をリフレッシュメントするためにあると言っていい。ハウスミュージックの4つ打ちや、ロックミュージックの8ビートカッティング、レゲエの裏打ちギター等々、不断の託宣を知っている読者諸氏も多かろうと思うが、この「一夜のパーティーを貫通するリズムのあり方」は、そっくりそのまま本作の音楽にトレーシングされている。本作は、この点を初めてきちんと押さえ、実行したミュージカル映画である。
主人公ウスナビは、映画の開始から数分で、自分の半生記を聞かせるために集まった子供達に、「長い話をする為に」手近にある椅子を使って、指で3×2(スリー・トゥー)のクラーベを叩き始める。
託宣はドミニカの真昼のビーチで生じた後、一瞬でニューヨークのワシントンハイツに飛び移り、7分以上ノンストップで続く、本作の壮大な主題歌「イン・ザ・ハイツ」を導き続ける。
冒頭からはブロードウエイスタイルで、有名な「A列車で行こう」の軽やかな引用も挟みつつ、快活に始まった主題歌は、まだAメロに入る前、路上で放水している清掃員が、スリー・トゥーで放水していることをさりげなく示した瞬間に、主人公ウスナビがマンホールの蓋に粘着したチューインガムに足を取られ、マンホールの蓋はターンテーブルとなって、ギュインと中断する。そしてすぐに再開されるのである。
この「中断と再開」の連続こそが、ラテンミュージックの真骨頂である。主題歌はそのことを冒頭から明確に見せ、主要登場人物の紹介を終えると、サビではマイナーキーになり、ブロードウエイスタイルによって後景に隠れていたクラーベが前景に躍り出て、サルサミュージックによる大群舞シーンに連結される。
ここが本当に素晴らしい。サルサ音楽にとってのマイナーキーは哀愁や情緒的な悲哀ではなく、パワフルで不断であることの源泉であり、その状態がセンターであることを意味している(その意味は、我が国では<「テツandトモ」の「なんでだろう」こそが、演歌の血と結びついた日本のラテンカルチャーである>という奇矯な説明に落としこまれるしかないのだが)。
主題歌「イン・ザ・ハイツ」こそ7分強で終了するが、数分のドラマシーンの後に始まる2曲目「ベニーズ・ディスパッチ」もまた、同じクラーベ、同じテンポであり、前述、「冒頭の20分間」は、まずは一瞬のテーンテーブル=マンホールによるブレイク、そして「もうこの曲は終わったのだ」と誰もが思うほどのドラマシーンを挟み、実は永劫に似た不断の1曲なのだということを示しており、それは、続く3拍子の「ブリーズ」(英国調とも言える格調あるワルツだが、導入部が英雄ルーベン・ブラデス。そして最高潮になると「3拍子のサルサ」にまで発展する)や、めくるめく名曲群(全17曲。捨て曲なし)を聴かせ続けながら、結局この、2時間に及ぶミュージカルが、冒頭でウスナビが指先で叩くクラーベの導きに貫通されていることがわかる。
ヒスパニック文化圏の中でも、最近、治安の悪化により、年間の死者数がイラクとアフガニスタンを超えた、地理上の区分における「中米諸国(グアテマラ、ベリーズ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、パナマ)」よりも北に位置する、カリブ海沿岸諸国内での大アンティル諸島内独立国である、キューバ、ジャマイカ、プエルトリコ、ドミニカ、ハイチ、(並びに大陸内にあるメキシコ)といった諸国の持つ、西アフリカに匹敵する音楽の豊穣、移民を通じて世界中に浸透している音楽文化(サルサはその中で最も成功した都市音楽と言える)のプレゼンテーションとデクラレーション(宣言)として、これ以上の方法と完成度は、しばらく現れないだろう。
現れるとしたら「正調ブロードウエイ」を完全に脱臭した、エゲツないドープな中南米音楽だけ(それには、洗練されてない、イルなチカーノ・ラップの導入など、都市音楽のラテン的混血の中でも、「まだ舞台には載せられない」音楽も含まれる)のブロードウエイ作品が想定されるが、このような愚直な正攻法が実を結ぶ時、それはもはや、ブロードウエイがブロードウエイではなくなった時であり、つまり話は180度旋回し、『ハミルトン』は、この点を「物語をアメリカ合衆国の建国初期に設定し、敢えてリアル=今、な移民複合体を排する」ことで、戦略的に突破している。