『フリー・ガイ』の内容は意外に深い? 哲学的な切り口から読み解く

『フリー・ガイ』を哲学的な切り口から考察

 日々驚異的なスピードで進歩を遂げている、ビデオゲーム(TV、PCゲーム)の表現力。その技術革新が活かされたリアルな仮想世界を舞台に、作品の背景でしかないはずの“モブキャラ”が、自分の意志を持って行動をする姿が描かれるのが、本作『フリー・ガイ』である。

 コメディー要素がたっぷりのアクション映画として楽しめる本作だが、じつはその裏には、私たち自身をも巻き込む、おそろしい絶望と、その対極にある希望が隠されている作品でもある。ここでは、そんな意外に深い内容を持つ『フリー・ガイ』を、哲学的な切り口から読み解いていきたい。

 舞台となるのは、架空のオンラインゲーム「フリー・シティ」の世界。そこは、『グランド・セフト・オート』シリーズや、『ウォッチドッグス』シリーズなどのゲームのように、現代の犯罪をテーマに作り込まれた、仮想の都市の中を自由に行動できる「オープンワールド」を楽しめるデータ上の空間だ。

 そこには、作品世界を“本物らしく”見せたり、一定の役割を果たすためだけに、ただ決められた行動や反応を機械的に繰り返す、ノンプレイヤーキャラクター(NPC)が存在する。その中でも、いてもいなくても影響のなさそうな、何の役割も担わされていないNPCはモブキャラとも呼ばれ、ほとんど注意が払われない背景のような存在である。ライアン・レイノルズが演じる本作の主人公“ガイ”もまた、その一人として毎日を単調に繰り返し、ときに“プレイヤー”の被害を受け、命を落としては復活し続ける存在でしかない。 

 筆者自身も、このような暴力的なオープンワールドのゲームをプレイするときに、NPCをひどい目に遭わせてしまいがちだ。コンビニで働く店員を銃で撃ち抜いてしまったり、通行人のスマートフォンをハッキングして銀行口座から金を奪ったり、繁華街の交差点に炎上する乗用車を何台もわざと放置して大惨事を発生させるなど、あらゆる理不尽な仕打ちをモブキャラに行ってきた覚えがある。そんなことができてしまうのは、NPCたちがプログラムによって動いている、単なるデータしでしかないことを理解しているからだ。しかし、そんな一員であるはずのガイはある日、自由意志に目覚めることになる。自分の意志を持って動いた時点で、それはもはや“生命”といえるのではないか。

 このように、機械やプログラムによって動作する存在が意志を持ってしまう物語は、小説や映画でも数多く見られる。士郎正宗原作のアニメーション映画『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995年)でも、地球上の生命が海から発生したといわれるように、「“情報の海”から生まれた生命」を名乗る存在が出現する。“ガイ”もまた同様に、情報から生み出された生命だといえよう。

 現実の世界のようにリアルなゲームの中の世界を表現するのに、本作は『マトリックス』(1999年)同様、基本的に通常の実写映画と同じ手法で撮影されている。これは、人間の作り出す近年のゲームがそれほどリアリティを獲得していて、その中で生活をするガイたちが、自分のいる場所が現実の世界だと疑わないほど作り込まれているという設定に、むしろ説得力を与えている。



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