『フリー・ガイ』の内容は意外に深い? 哲学的な切り口から読み解く

『フリー・ガイ』を哲学的な切り口から考察

 「フリー・シティ」の世界に生きる自分たちがプログラムでしかなく、現実世界のサーバーを破壊すれば消えてしまうような儚いものでしかないとしても、“バディ”が、いま目の前で落ち込んでいる“ガイ”のために言葉を紡いでいる瞬間が存在することは確かであり、それを感じとっている“ガイ”が存在することも確かなのだ。たとえ、それがプログラムがもたらした結果に過ぎないとしても、それが世界に存在した事実は消えることはない。そう考えるなら、“ガイ”が「フリー・シティ」の中で人々を助けてきた行動は、何の意味もなかったとはいえないのではないか。そしてその成果は、モブキャラたちのボイコットへと発展し、現実世界にも影響を及ぼすことになるのだ。

 そして本作は、自分がゲームの世界から出ることのできない存在であることを受け入れた“ガイ”が、それでも世界に希望を見出す姿を映し出す。これは、「胡蝶の夢」の問いを経て、荘子がたどり着いた“逍遥遊”という考え方に通じるところがある。荘子は、たとえ自分が蝶であろうと人間であろうと、「何物にもとらわれず“自由”に遊ぶように生きる」という境地に達するのだ。それは、まさに冒険や恋愛、戦いや問いを通して、悟りを得た“フリー・ガイ”の姿そのものに繋がっているのではないだろうか。

 とはいえ、本作がそのような哲学が反映された物語だとして、それがわれわれ観客にとって何の意味があるのかという問題がある。「われわれの生きるこの世界が“シミュレーテッド・リアリティ”であるかもしれない」とか、「それでも生きる意味はある」という考え方は、面白い刺激にはなり得るものの、結局それはわれわれに何ももたらさないのではないか。

 しかし本作が、これらの題材を通して描こうとしたのは、あくまで現実の問題である。それは、本作のヒロインであるミリー(ジョディ・カマー)に想いを寄せる、プログラマーのキーズ(ジョー・キーリー)と、実業家アントワン(タイカ・ワイティティ)との、経済力を背景にした雇用関係を描くことによって明らかになっている。キーズは高い能力を持ちながらも、現状の生活が壊れるリスクを回避するためにアントワンの下で大人しく命令を聞くことで毎日をやり過ごし、本当にやりたいことができないでいるし、ミリーに自分の気持ちを告げることもない。それは、プログラムによって行動が制限されたモブキャラの生き方に、意図的に重ねられている。つまり本作の哲学性は、あくまで社会の中で生きているわれわれのためのものなのである。

 もちろん現実は厳しく、思い通りにならないことばかりだ。その意味では、キーズの生き方はリアリズムを受け入れた妥当なものといえるかもしれない。しかし、かつては毎日同じコーヒーしか頼むことのできなかった“ガイ”に象徴されるように、一日一日を繰り返すだけの単調なものだと考え、自分の意志を殺しながら生きるのでは、張り合いがない。自分の意志に目覚めた“ガイ”が、ミリーに正直な気持ちを打ち明けたり、街の人々を救い続けたように、自分の大事なもののために生きることができれば、人生は、より価値を持つのではないか。

 そして、何か行動を起こすことで、世界は良い方向に変わることがあるかもしれない。もし、そう考えて生きることで人生が充実し、日々が少しでも輝くのなら、哲学や映画、そしてゲームは、われわれの人生にとって、現実に役立たないただの言葉遊びや娯楽ではなくなるのではないだろうか。少なくとも本作の物語には、その可能性が隠されているはずである。

■公開情報
『フリー・ガイ』
全国公開中
監督:ショーン・レヴィ
出演:ライアン・レイノルズ、ジョディ・カマー、ジョー・キーリー、タイカ・ワイティティほか
配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン
(c)2021 Twentieth Century Fox Film Corporation. All Rights Reserved.
公式サイト:movies.co.jp/FreeGuy

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