Fukase、『キャラクター』両角はなぜ適任? セカオワ楽曲から見えるイノセントな狂気

セカオワ Fukase、両角はなぜ適任?

 劇中、Fukase演じる両角はその生い立ちゆえか、倫理観の感じられない言動を繰り返す。その声音はクライマックスのシーンを除き常に柔らかく無邪気で、まさに「天使のような」「少年」という形容詞が似合う。しかし、その瞳には光がなく、まばたきもなく、深く暗い湖のように常に凪いでいて、心の奥底が読めない。

 特に、初めて山城と出会うシーンでの両角の表情は圧巻だ。ゆっくりと、機械の部品が軋むような動きで振り返ったその瞬間の彼の瞳は、まるで空虚を押し固めたような色をしている。

 常識や倫理観というものは、人間が子供から大人へと成長していく中で、少しずつ知識や経験を積み重ねることで身に着けていくものだ。ときに足枷にもなりうるものだが、他人を思いやったり、「世間一般では常識とされているもの」を疑うためにも必要になってくる。しかし両角からは倫理観が欠如している。そのため、彼はいわばものを知らない子供のまま大人になってしまったような、ある意味の純粋さを持ち合わせているのだ。その純粋さは残虐性を孕んで観る者のもつ常識や正義、倫理をにわかに揺るがせる。そして、そんな両角のイノセンスを限りなく的確に表現しているのが、Fukaseの静かで柔らかな、彼を知る者なら誰もが想像できるあの声なのだ。

 両角の倫理観の欠如によるイノセンスとは当然まったく異なるが、SEKAI NO OWARIの楽曲の中で常識や正義を疑い続けてきたFukaseの歌声や歌詞からは、“人間”という存在への至極純粋な疑念を感じる。“どうして人を殺してはいけないのか?”“どうしてほかの生き物の肉を食べて生きるのか?”――その、子供のような純粋な問いとそれを表現する歌声にはイノセントであるがゆえの狂気が宿っている。彼が元来持つ“イノセントな狂気”が、両角という人物の狂気と共鳴し合ったことにより、あの絶妙に危うげな存在感が生まれたのではないだろうか。

 今後、Fukaseが再び役者としての表現に挑戦するかどうかはわからないが、今度はヒールではなく物語の主人公やキーパーソンとして、観る者の持つ常識を揺るがせるような役柄にチャレンジしている姿が見てみたいと思う。また、その魅力的な声を活かした声優やナレーションなどの表現にも期待したい。

 無論、音楽と演技とではその表現の作法はまったく違う。そのため、Fukaseよりも両角という役を“上手に”演じられる役者はほかにもいるはずだ。しかし、『キャラクター』という映画の世界に確かに存在した「両角」という人物を、Fukase以上に的確に表現できる役者はいないだろう。

■五十嵐文章(いがらし ふみあき)
音楽ライター。主に邦楽ロックについて関心が強く、「rockinon. com」「UtaTen」などの音楽情報メディアにレビュー/ライブレポート/コラムなどを掲載。noteにて個人の趣味全開のエッセイなども執筆中。ジャニーズでは嵐が好き。noteTwitter

■公開情報
『キャラクター』
全国公開中
出演:菅田将暉、Fukase(SEKAI NO OWARI)、高畑充希、中村獅童、小栗旬
原案・脚本:長崎尚志
監督:永井聡
配給:東宝
(c)2021 映画「キャラクター」製作委員会
公式サイト:https://character-movie.jp/
公式Twitter:@character2021
公式 Instagram:@character_movie2021

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