坂元裕二が描き続ける恋と愛の狭間 『花束みたいな恋をした』が突き付ける世知辛い現実

麦「分けちゃダメなんだって、恋愛は」
絹「恋愛はひとりに一個ずつ」

 菅田将暉演じる麦と、有村架純演じる絹は冒頭の場面においてそう言った。坂元裕二脚本、土井裕泰監督の映画『花束みたいな恋をした』は、相手を自分の分身なのではないかと勘違いしそうになるほど同じ価値観を持った、サブカルチャーをこよなく愛する男女の恋とその行く末を描いた。

 冒頭は2020年から始まる。カフェで恋人たちが、1つのイヤホンを共有して音楽を幸せそうに聞いている。それを見て、それぞれの同伴者に向かってイヤホン共有の是非について同じことを語り、同じ行動を取ろうとして立ち上がったところで互いに目が合い、気まずそうな表情をする麦と絹がいる。それ以降、観客は、ここまで同じ価値観を持つ二人がなぜ他の誰かと一緒にいるのだろうという不思議さを抱えながら、この美しい恋物語に没入していく。

 だが、それだけに留まらないのが坂元裕二脚本の凄みである。その後、彼らの蜜月を示すファミレスでの一場面において登場する一人の男の台詞によって、観客は冒頭の場面を反芻することになるだろう。そして、そこに横たわっている、あまりにも残酷な時間の経過を感じ、慄くと共に、居心地の悪さを味わうに違いない。

 とにかく坂元裕二の脚本に溺れた。映画を観終わった後、その足で本屋に行ってシナリオを購入したぐらいだ(『花束みたいな恋をした』,坂元裕二,リトルモア)。彼らの台詞を、彼らの愛おしくて幸せな5年間の記憶を、できることなら自分の手元に永遠に残しておきたかった。

 「トーストを落としたら、必ずバターを塗った方から床に落ちる」ことを「これだけは真実」と語る「大体ひそやかに生きている」絹も、「いまだジャンケンのルールが理解できない」麦(これは絹もだ)も、ドラマ『カルテット』(TBS系)の家森(高橋一生)が言うところの「壁に画鋲も刺せないあっち側」の人間で、つまりは私たち、『カルテット』の4人や絹や麦を見て、現実世界で見つかった試しがない「心の友」に初めてテレビ/スクリーン越しに出会ってしまったような気がしてしまった「こっち側」の人間の物語だ。「普通になるのって難しい」、大体の人たちの「マニアック」が「マニアックに思えない」という悲劇を抱えた彼らの物語。その点に関しては、彼らは『最高の離婚』(フジテレビ系)における光生(瑛太/現・永山瑛太)、『カルテット』における真紀(松たか子)の夫・幹生(宮藤官九郎)に似ていると言えるのかもしれない。

 2人が「はじめて寝た」三月のすごく風の強い夜のこと。「三日続けて彼の部屋に泊まった。大体はベッドにいて、何回もした」「ここでもしたし」「ここでもした」「三日目に冷蔵庫が空になって、近くのカフェにいった」と、ものすごくカジュアルに、健康的に、モノローグで描かれる『愛のコリーダ』的光景。そしてその先にある、カフェの朝食のパンケーキ。そこにあるのは命を燃やし尽くして衰弱していく愛の果てではなく、ただひたすらに溢れる生命力なのである。それだというのに、次のシークェンスにおいて、絹は、とあるブロガーの死を知って、やがて訪れるだろう「恋の死」を心のどこかで予感している。

 なぜ恋は死んでしまうのか。