Netflix『もう終わりにしよう。』が本当に終わらせたかったこと 話題を呼んだ謎の数々を読み解く

『もう終わりにしよう。』の謎を読み解く

学校のシーンから見える彼の感情

 現実では年老いたジェイクが演劇部の練習を見たり、(この時妄想パートでは車内でルーシーにミュージカルが好きだと話している)、休憩中にロバート・ゼメキス監督作のラブコメ(これ、実在しない嘘映画です)を熱心に観ていたりと、その後の彼がどんな人か垣間見える。そこから伺えるのは、本当はもっと堂々として表に立ちたい、恋に焦がれる初老のパッションだ。それに、自己を表現したくてたまらない。彼が本当につけたかったゲームチームの名前は「イプセイティ」で、それは自己性や個体性を意味する。つまり彼は誰よりも、そういう情熱だの愛だのに憧れているのだ。そしてだからこそ、それらのない人生に絶望している。

 この映画に相当心打たれたのか、その後の妄想パートでルーシーとジェイクの出会い方が「ゲーム大会」から「彼女がウェートレスをしているダイナーで」に変わっていて、もろにラブコメの影響を受けているのも面白い。

何度もかかってくる電話

 ところで、本作にはルーシーに何度も“ルーシー”から電話がかかってくる。ちなみに名前が時々変わるのは、老いからくる記憶力の問題かもしれない。本ではこの電話について、より深堀りされているのだが、要は自分の番号から自分の携帯に着信があるというのだ。そして時折、以下のようなボイスメッセージを残す。

「答えを出すべき問いは、ただひとつ。私は怖い。気が少しおかしくなってきた。私は正気じゃない。思っていたことはあたっている。不安がふくらんでくるのがわかる。答えを出す時がきた、問いはただひとつ。答えを出すべき問いは、ただひとつ」

 死ぬことについて彼自身は迷いを抱えている。しかし、迷うたびにもう一人の電話越しの自分が「終わりにするべきか、しないか」の問いの答えを催促する。「思っていたこと」とは、これ以上生きていても孤独から抜け出すことができないのでは、という不安なのではないだろうか。そして彼は決断を避けるように、この電話を何度も出ないように無視する。しかし、電話がかかってくるのは映画の前半で終わり。後半ではかかってこなくなる。つまり、かかってこなくなった時点で彼から迷いが消え、出した答えの決意が固まったのだ。

映画のラスト、ジェイクの最期

 原作小説では、章の合間に誰かの会話文が挿入される。なんらかの事件が起こり、死人が出た。その当事者を知る者たちによる会話なのだが、これが一層理解を深める材料となっている。最後まで読むと、ルーシーが何者かに学校で追いかけられてロッカーに逃げ込み、曲げたハンガーで自分の首を何度も刺して自殺する描写があり、つまりそのようにして老人ジェイクが終わりにしたことがわかる。映画では少しこれが変わっていた。

 実家という名の“過去”を離れたジェイク一行は、職場の“学校”という現在に向かって進んでいく。そこで、ルーシーと老いたジェイクが出会う。最初怯えていたのに、会話中ルーシーが突然強気の態度で饒舌に話すのも、彼女が彼自身であることを裏付けている。そして会話の内容も、自身との対話と考えて聞くとわりとくるものがある。「さよなら」と別れを告げた時の老人ジェイクの顔が泣きかけるような悲しい顔で、ルーシーが泣きながら笑っているのも、力強い。

 それから、映画はほぼノンバーバルな映像で展開されていく。一見突飛なシークエンスだが、ジェイクが本当はしたかったこと、やり遂げたかったこと、という見方をすると観やすい。もっと風貌のいい男になって、かわいい子を暴漢(本来の自分の姿)から守って、賞を受賞して拍手喝采のスタンディングオベーションを受けて。そこには、自分を信じて愛してくれる妻と家族がいて……。

 一方、本当の彼は車の中にいる。外は極寒で、車内もエンジンをかけてヒーターをつけなければ凍死する寒さだ。しかしそこで彼は服を脱いでいく。そんな彼にアニメーションで描かれる豚の迎えがやってきて、彼は真っ裸で雪の中を歩き、それについて行った。話す豚という非現実的なものが登場した時点でやはりそれは非現実的で、現実では朝、雪が積もったトラックの中で凍死しているジェイクが発見されるのだろう。エンドロール間際に映し出されるその車が、ルーシーたちが乗ってきた車ではなく老人ジェイクの車であることも見逃せないポイントになっている。

 これは「別れたいけど気に入っている部分もあって、もう少しいいところを見つけようと頑張ってみたけど、やっぱ無理、マジで別れよう」という女心を描いた映画ではないにしろ、そんな見方をしても観られる。むしろ、一度でも似たような状況を経験した人からすると、どこか彼女の独り言に共感できる部分もあってそれを気にいるかもしれない。絶対的な何かの「終わり」を感じさせる、そんな映画だ。

 いずれにしても、『ヘレディタリー/継承』といい、もうトニ・コレットが母親役の食卓には絶対につきたくない。

■アナイス(ANAIS)
映画ライター。幼少期はQueenを聞きながら化石掘りをして過ごした、恐竜とポップカルチャーをこよなく愛するナードハーフ。レビューやコラム、インタビュー記事を執筆。InstagramTwitter

■配信情報
『もう終わりにしよう。』
Netflixにて独占配信中
Mary Cybulski/NETFLIX (c)2020

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