実話を基にしたテレンス・マリックの新境地 『名もなき生涯』における「神の沈黙」のテーマを読む

『名もなき生涯』の「神の沈黙」のテーマ

 アメリカの巨匠ジョン・フォード監督に『ハリケーン』(1937年)という作品がある。南太平洋の小島に住む、妻子ある先住民の若者が、差別的な白人に絡まれてケンカをしたことで、白人の裁判官に懲役6ヶ月という、理不尽に重い刑を言い渡される。白人たちの話す言葉も常識も法律も知らない若者は、妻子に会うために何度も脱獄を繰り返すが、その度に捕まって刑期が膨れ上がり、16年の刑に処されることになってしまう。何も悪くないのに人生を奪われる……なんという理不尽な物語だろうか。この若者やフランツのように、価値観やルールが違う者全てを、ある価値観を持った者が、権力によって一方的に従わせるという行為は、もはや魂の殺人といってもいい。

 本作では、収容所で満足な食料が与えられず、兵士たちに様々な暴行や辱めを受ける耐え難い日々を送るフランツが、妻へ手紙を送り、妻もまた愛情を込めた返事を返す。そのやりとりが、互いのいる場所の風景とともに、夫妻を演じるアウグスト・ディール、ヴァレリー・パフナーの声によって語られていく。

 テレンス・マリック監督と、彼の作品の撮影に参加してきたイェルク・ヴィトマーが撮影監督を務め、できるだけ照明を使わずに自然光だけで、そしてワイドレンズで捉えた山の風景は、『天国の日々』で描かれたアメリカの大地と同様、荘厳さと静謐さを備えた場所として映し出される。

 ワイドレンズは、広い角度で景色をとらえ、フレームの中に凝縮する。そのことによって、世界がまるごと収まっているように感じられる。さらに、人物を極端な接写でとらえていることも、本作の撮影における大きな特徴だ。凝縮された世界と、存在感が際立った人物。これが示すのは、“世界”と“人間”を並列的に並べてみるという行為だろう。それは、本作の重要なテーマともつながってくる。

 敬虔なカトリック信徒である、フランツや妻ファニは、神の求めているはずの道を歩んでいるはずなのに、神の側は苦痛にあえぐフランツに、何の助けも与えてくれない。だとすれば、全能の神などというものは、もともと存在しないのだろうか。自分たちが祈りを捧げてきた、そして人類の歴史のなかで膨大な数の人々が神に祈りを捧げてきたことは、全くの無駄な、愚かな行為に過ぎなかったのだろうか。このような内面的な葛藤がフランツ夫妻に襲いかかるのである。

 これは、文学や映画などで描かれてきた、「神の沈黙」のテーマだ。スウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマン監督は、このテーマでいくつも作品を作り、遠藤周作の小説をマーティン・スコセッシ監督が映画化した、『沈黙 -サイレンス-』(2016年)も記憶に新しい。“神が存在するのなら、悪が罪なき者を虐げるときに、何故助けてくれないのか?”敬虔な者たちが、そんな疑念を持つことは、とくにキリスト教の信徒が多い西洋では、一つの大きな文学的、哲学的なテーマだといえる。本作では、そんな疑問を描くときに、皮肉にも、豪華な教会の聖堂が映し出される。

 しかし、そんな絶望的な物語のなかで、わずかな希望が描かれていることを見逃してはならない。夫が犯罪者の烙印を押されたことで、村八分になっていたファニに対して、心ある数人の村人が、善意から人知れず小さな親切や心配りをしてくれるのである。

 そして運命の日、いくらかの村人は、自分たちの罪を代わりに引き受けたようなかたちのフランツに対して、静かに祈りを捧げる。それは、まさにキリストが人類全ての罪を背負い苦痛の死を遂げた構図に似ている。このように、フランツの行為が、人々の善意を目覚めさせたのだとしたら、そこにこそ神は存在するのかもしれない。豪華な聖堂ではなく、人と人とのつながりのなかにである。

 ファニは、この犠牲には必ず意味があるはずだと、自分に言い聞かせるように綴っていた。この理不尽な悲劇に、もし意味があるとすれば、後の人々がフランツのように、善意や信念を持ち、紛れもない悪に対して、抵抗することを学ぶということなのではないだろうか。

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