『プライベート・ウォー』が描く“自由の価値” 「自己責任」に囚われる私たちが考えるべきこと

『プライベート・ウォー』が描く自由の価値

 日本への原爆投下を機に考案された、「世界終末時計」をご存知だろうか。核兵器や化学兵器などの大量破壊兵器を人類が手にし、環境破壊が進行することで、人類にどれだけ滅亡の危機が迫っているかを、科学者たちが残り時間で表現するというものだ。先日、アメリカの学術誌が、アメリカとイラクの緊張状態や地球温暖化の状況を受けて、昨年の“残り2分”から、史上最短の“残り100秒”になったと発表した。

 こういった息苦しい報道が多い昨今、『1917 命をかけた伝令』や、『彼らは生きていた』、『名もなき生涯』など、戦争を題材にした映画の存在感が、これまでになく増してきているように感じられる。そのなかで、2019年に公開され話題となった、戦場ジャーナリストである一人の女性の辿った運命を描く『プライベート・ウォー』は、2000年代以降に起きた戦争や、いまも続く紛争を描いているという点で、とくに身近な内容となっている。

 ここでは、そんな本作『プライベート・ウォー』の内容を振り返りながら、物語の枠を超えて伝えられる、現代に生きる観客にとって課題となり得るテーマを考えていきたい。

ロザムンド・パイクが体現する“個人の戦い”

 イギリスを中心に活躍し、デヴィッド・フィンチャー監督のハリウッド映画『ゴーン・ガール』(2014年)で大ブレイクを果たした俳優、ロザムンド・パイク。ベン・アフレック演じるプレイボーイの夫を、奈落の底へと突き落とすような目に遭わせる妻という、痛快な当たり役によって、彼女は現代的で意志の強い女性像を、自分のイメージにした部分がある。

 本作では、そんなパイクが、さらなる強さを持った実在の戦場ジャーナリスト、メリー・コルヴィンを演じている。英国のサンデー・タイムズ所属のアメリカ人であるコルヴィンは、自ら世界中の戦場に赴いて、現地の状況を取材。攻撃による爆風で左目を失いながらも活動を続け、海賊を連想させる黒い眼帯姿で戦場を駆け回った人物だ。パイクは彼女を演じることで、これまでにない勇壮なイメージを漂わせる。

 だが本作では、彼女の繊細さも描かれていく。仲間に対しては気丈に振る舞っているものの、一人になると不安にさいなまれるのだ。左目を奪われたことへの言いようのない喪失感や、突然襲いかかるPTSD(心因性ストレス障害)など、おそらくコルヴィンが経験しただろう“個人の戦い(プライベート・ウォー)”がフォーカスされる。一見活動的な内容に見える本作だが、むしろ演技としては、パイクによる内面的な葛藤の表現が見どころとなっているのだ。

 とはいえ、やはり本作の特徴は戦争の描写にある。監督は、メキシコ麻薬戦争を追ったドキュメンタリー『カルテル・ランド』がアカデミー賞にノミネートされたマシュー・ハイネマン。さらに、オリヴァー・ストーン、マーティン・スコセッシ、クエンティン・タランティーノ監督の複数の作品で撮影を担当し、アカデミー賞受賞経験のある、ベテラン撮影監督ロバート・リチャードソンが手がけていることで、本作は現実の報道を見ているかのようなリアリティと、戦場の凄絶な光景が、ときにおそろしく、ときにぞっとさせる美しさをもって表現される。とくに、一般市民が戦闘の巻き添えになった、シリアのホムス旧市街の、爆炎と煙立ち込める夜の光景は、本作の最大のスペクタクルといえよう。

 コルヴィンは、ときには兵士たちに同行し、銃弾飛び交う危険地帯を走り抜けるなど、現地の兵士と同レベルの命のリスクを引き受けることもある。そして実際に、左目を失ってからも葛藤を乗り越え、周囲の反対意見にも耳を貸さず、戦場に復帰した。彼女はなぜそこまでして、戦場を取材することにこだわったのだろうか。

コルヴィンが選び取った自身の価値

 本作では、その一つに、戦場に身を置くこと対する一種の中毒症状の可能性が言及されている。日常の感覚から離れ、一瞬一瞬の危機に集中することで、生の実感を得るというのは、多くの登山家やクライマーが繰り返し山や崖を登る理由に近いところがあるのかもしれない。ヘビースモーカーで酒を大量に飲み、性的に奔放な姿を見せるなど、コルヴィンがいつでも刺激を求めていた姿も、本作で描かれる。その行為はPTSDに対する彼女なりの対処法であった可能性もあるが、どちらにせよ、彼女を生(なま)の人間として映し出そうとする姿勢が、そこに見て取れる。

 作品にそういった姿勢があることは、#MeToo運動の契機となった性犯罪告発を扱った、現在公開中の『スキャンダル』で、主演・製作を務めたシャーリーズ・セロンが、本作でも製作を務めていることが象徴しているように思える。本作では、「左目を失ったことで美貌も失われた」と、戦場に行くことを断念させようとコルヴィンが詰め寄られる場面があるが、人間の生き方や価値は、その人自身が決めて良いはずだ。コルヴィンは、自分の価値が何かということを選び取り、危険に身を置くという“権利”も選び取った。その自主性こそを、本作は讃えているのである。

 それでも、本作は劇映画作品として、彼女のパーソナリティや周囲との関係を省いている部分がある。さらにメリー本人の実像を知るには、ドキュメンタリー映画『メリー・コルヴィンの瞳』を鑑賞することで補完されるはずだ。銃弾が飛び交い爆炎があがる戦場の本物の映像のおそろしさと、同時に本作がどれだけ実際の戦場を再現しているかが、2作を観ることで理解できるはずである。

『メリー・コルヴィンの瞳』(c)Arrow International Media Limited/A&E Television Networks, LLC/The British Film Institute MMXVIII

 コルヴィンが選び取った自身の価値とは、ジャーナリストとしての使命感だ。本作では、シリアでの爆撃の被害によって、父親の目の前で死んでゆく子どもたちの姿や、赤ん坊に砂糖水しか与えられなくなった母親の姿が描かれる。そんな光景を目にするのは、現地にいる人間だけだ。自分がそこにいなければ、それを見る人はいないし、自分が伝えなければ、他に伝える人がいない。だとすれば、自分がその役割を担うしかない。これまでに経験したことのない地獄のなかにあって、コルヴィンはシリア住民とともに現地に残ることを決断する。

 映画作品として一連の光景が具体的に描かれ、状況を体験させることで、コルヴィンが危険を冒すようになっていく心理が、だんだん観客にも理解できてくる。彼女は変人だからではなく、人間だからこそ命を懸けるのだ。そのプロセスを描いたことで、本作は映画としての存在価値を獲得しているといえるだろう。

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