実話を基にしたテレンス・マリックの新境地 『名もなき生涯』における「神の沈黙」のテーマを読む

『名もなき生涯』の「神の沈黙」のテーマ

 数々の世界的な賞を受賞した『天国の日々』(1978年)、『シン・レッド・ライン』(1998年)、そして『ツリー・オブ・ライフ』(2011年)など、こだわり抜いた美しい映像と哲学的な内容の監督作品によって、伝説的な巨匠というイメージを持たれている映画監督、テレンス・マリック。彼が初めて実話を基に撮りあげ、3年の月日をかけて編集した力作が、『名もなき生涯』だ。

 新作を撮るたびに議論を呼び、熱烈な支持者も現れるマリック作品だが、今回はとくに新境地といえる鮮烈な内容となっている。一体、何が描かれたのだろうか。ここでは、そんな本作、『名もなき生涯』を、できるだけ深く考察していきたい。

 舞台となるのは、第二次世界大戦中のオーストリア。ナチスドイツが軍事力によってヨーロッパを席巻していた当時、隣接していたオーストリアは、ドイツの一部として併合され、ナチスドイツそのものになっていた。

 ナチス政権では市民に服従が求められ、当然のように人々は戦争に駆り出される。ドイツとの国境沿いにある小さな村、ザンクト・ラーデグントで妻ファニや娘たちと一緒に暮らす敬虔な農夫、フランツ・イェーガーシュテッターもまた、軍事訓練に参加することになる。フランツはそこで、破壊や殺戮を英雄的行為だとする軍の考え方に、強い違和感を持つ。

 やがて兵役が課されようとすると、フランツは決然と兵役拒否を表明し、ヒトラーには服従できないと主張する。無論、ナチスはフランツの行動を許さない。彼を罪人だとして収容所に送り、軍事裁判にかけるのだ。

 本作は、収容所にいるフランツと、村で彼の帰りを待つ妻の間でやりとりされた、実際の往復書簡を基に構成されている。看守によって拷問される地獄のような収容所の日々と、美しく静かな山の日々という、まさに対照的な世界が、約3時間の上映時間のなかで交互に映し出されていく。

 兵役を拒否したフランツは、あらゆる苦痛を受け、妻や娘たちは村から除け者にされる。多くの国民が戦いに出るなかで、「自分は行かない」と言うのは、人によっては、わがままに感じられるかもしれない。だがその前に、徴兵制度そのものの是非が問われなければならないだろう。そもそも、戦闘行為とは縁のない、つつましい生活をしている一般の人々が、政府の都合によって突然戦争に参加させられ、人を殺すことを強要される。これは異常なことではないのだろうか。

 そればかりか、軍拡を続けるナチスドイツの戦争は自衛とは程遠く、さらには自他国のユダヤ人を収監し大量殺戮を行うという、人類史に残る犯罪を行ったことで、戦後は世界から責められ、ドイツ政府も、現在まで深い反省を表明し続ける事態となったことは周知の通りだ。

 いまではナチスの思想や戦争犯罪は、あらゆる角度から間違ったものとされている。フランツの兵役拒否は、この考えからいくと、ごく真っ当な行為だったといえるし、周囲の圧力に屈せずに意志を貫いたという意味では、賞賛に値する行為だ。にも関わらず、フランツは国家によって、義務を怠る反逆者だとされるのだ。

 村の人々は次第にナチスの思想に順応していく。その裏には教会による国家への協力もあった。兵隊として人間を殺すことは、本来のキリスト教の教えに反する行為である。しかし宗教は、時代時代で権力とつながり、理念を曲げることがある。戦時の日本においても、もともと政治と関わりの深い神道はもとより、仏教の一部宗派ですら、“戦時教学”を掲げて、仏教徒として戦うことを人々に説いた史実がある。

 異常な側に「異常だ」と責められ、間違った側に「間違っている」と裁かれる。さらには道を説くはずの教会からも歪んだ教えを押しつけられる。自分が善良であるからこそ、悪に染まっていく狂騒の世界のなかで、自分が“悪”だとされていくのである。フランツにとってこれは、おそろしい悪夢である。

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