『キャッツ』は単なる失敗作でない!? カルト化する可能性を秘めた“異形の映画”
『キャッツ』(2019年)は、いずれカルト化すると思う。面白いかどうかはさておき、「変な映画を観た」という感触は確実に残るからだ。数年後まで尾を引くような個性が宿っている。ともかく異形の映画であることは間違いない。
本作がどういうストーリーなのかを説明するのは難しい。これは舞台版の頃から物語に重きを置いていないからだと私は考える。もちろん大筋は存在する。個性豊かな猫たちが転生するチャンスを狙って、それぞれ自己紹介代わりに歌とダンスを披露し、最後は選ばれし一匹が生まれ変わるために空へと昇っていく、というものだ。しかし、ではそのチャンスを巡って濃密な駆け引き/政治劇/ドラマがあるのかと言うと、そうでもない。あくまで次々と繰り出される歌とダンス、際立ったキャラクター、そしてヘンテコでポップなビジュアルが作り出す世界観が魅力だろう。観客は役者たちの素晴らしいパフォーマンスによるマジックにかかり、魅力的な猫たちが繰り広げる奇妙で楽しげな夢の世界に迷い込んだような感覚を覚え、しばし非日常に浸る。私は『キャッツ』の魅力はそこだと思う。映画にもこういった夢を見ているような感覚はあった。ただし、もっと悪夢寄りである。
最大の問題は、あの猫人間のビジュアルだ。予告の時点から全世界で大喜利大会と化したように、異様なまでの不気味さがある。本編も同様で、顔面がアップになれば人間なのかCGなのか分からない不気味の谷に陥り、全身を捉えるロングショットになると、せっかく役者たちが頑張って踊ったモーションキャプチャーにも関わらず、こちらはこちらで不気味にヌルヌル動くCGに見えてしまう。寄っても引いても不気味なのだから、私は観ながら「詰んだ……」と脳内で呟いた。特に特殊効果によって、ダンスの最大の魅力である「人間なのにスゲェ動きするな」という驚きが消えているのは致命的だ。変な例えだが、フルCGの『SASUKE』を我々は面白いと思うだろうか? どれだけ山田勝己をうまくCGに落とし込んだとしても、そこにMr.SASUKEの魅力を感じることはできないだろう。
もちろんCGが悪いのではない。使い方がおかしいのだ。舞台版だってヘンテコなメイクと世界観で踊るが、俳優たちの圧倒的な身体能力によって、先に書いたような魅力的なマジックを発動させている。そして、こうしたマジックは映画でも起こせるのだ。たとえばブルース・リーの『ドラゴンへの道』(1972年)ではセット丸出しのコロッセオが登場するが、チャック・ノリスとブルース・リーの戦いによってそんなことは気にならなくなる。多くの功夫映画で単なる野原が特別な空間になるし、『ザ・レイド』(2011年)でも、ただの倉庫が特別な空間に見えた。これは演者の体を張った動きの説得力によるものだ。本作はこうした演者のアクションの魅力を放棄している。もっと役者の肉体の実存をアピールするような、それこそ舞台版のようにメイクや衣装で攻めるアプローチをしていれば、舞台版同様のマジックが発動して、真っ当なミュージカルとして評価されたかもしれない。
しかし、本作は単なる失敗作でもないと思う。なぜなら猫人間たちに奇妙で強烈な個性があり、良くも悪くも記憶に残るビジュアルを獲得しているからだ。この規模の予算を投じて、こんな奇妙な映像が出来上がったのが不思議でならない。特に食事シーンを頻繁に入れることで、猫人間の生々しさを強めている点は驚いた。この食事は、そんじょそこらの首が飛ぶシーンより凶悪だ。生理的嫌悪感を覚える人も多いだろうが、「こんな金を使って何をやってるんだ」と感心もした。
また、俳優陣でいうとイドリス・エルバに驚かされた。コートを着てセクシーに登場したかと思えば、ここ一番というところで全裸になって踊り出す。いや、そもそも「猫の全裸って何だ?」という疑問はあるが、着ている服を脱ぎ捨てるのだから、やはり「全裸になる」と言うべきだろう。逆説的だが、服を着なければ全裸にはなれないのだ。