映画『キャッツ』の悪評は妥当なのか? 小野寺系が作品の真価を問う
猫を題材としたT・S・エリオットの詩集を基に、数々のヒットミュージカルを手がけている、アンドリュー・ロイド=ウェバーが曲をつけ、何度も上演されてきたミュージカル舞台『キャッツ』。その映画版がついに公開された。
しかし本作は、登場するキャラクターたちの外見の奇妙さなどを理由に、アメリカの一部批評家の批判を契機として、日本でもインターネットを中心に、悪評にさらされているのは周知の通りだ。
本作の監督は、アカデミー賞監督賞の受賞経験があり、同じく人気ミュージカルを映画化した『レ・ミゼラブル』を撮っているトム・フーパー監督。オリジナル作曲家アンドリュー・ロイド=ウェバーをスタッフにくわえ、世界的バレエダンサーのフランチェスカ・ヘイワード、さらにアーティストのテイラー・スウィフトや、ジェニファー・ハドソン、ジュディ・デンチ、イドリス・エルバ、イアン・マッケランなどなど、おそろしく豪華な布陣で臨んだ作品だ。そんな本作が、なぜこのようなことになってしまったのだろうか。
ここではそんな騒動の起こった理由と、逆にそこから離れた、本作の映画としての内容を、できるだけ深く考えていきたい。
映画公開前、予告編や写真が衆目にさらされ騒然としたのは、猫を演じるキャストたちの、CGを駆使した見た目の奇妙さだった。舞台版に比べて毛が薄く、裸のようにボディラインが見えてしまうところや、頭部が小さく感じるプロポーション、そして人間そのものの顔……。私自身、なぜこのような見た目になってしまったのか、疑問に感じたのは確かだった。
だが、実際に作品を観ることで、その疑問の多くは、ある程度解消されることになった。フランチェスカ・ヘイワードをはじめとする、キャストたちのダンスシーンをはっきりと見せるためには、身体のラインが見えていた方がいいし、トム・フーパーが『レ・ミゼラブル』で行ったように、キャストの顔の表情に迫っていく演出をするためには、人間そのものの顔である方が感情が伝わりやすい。つまり、本作の“猫人間”の容姿には、そうなるだけの理由があったのだ。
もちろん、それが無視できない数の人々の生理的嫌悪を引き起こすものであったことは、作り手側の工夫に落ち度があったということだろう。しかし、理由が分かった上で観れば、そこまで騒ぎ立てるような性質のものではないというのも明らかなのではないか。むしろ、あまりに毛が多く、さらにグラムロック風の、時代を感じる見た目だった舞台版と比べると、いくつもの点で映画版の良さが発揮できているとさえ思う。
このように考えると、奇異な面を大げさにあげつらうだけの意見は、作品の内容と見た目の関係を無視し、作り手の工夫をわざと、もしくは無意識に曲解しようとしているように思える。もちろん、映画をどのように楽しむのかは、人それぞれ自由ではあるし、作者の意図と異なる部分を指摘する面白さも存在するはずだ。しかし、“笑いもの”にするには、本作は良いところが少なくないのだ。