『カイジ』シリーズが見せた日本映画としての可能性 藤原竜也のテンション高い演技の凄まじさ

『カイジ』シリーズ、日本映画としての可能性

 さて、最終作となった本作『カイジ ファイナルゲーム』の内容はどうだったのだろうか。前2作は原作に準拠しながら、映画作品として部分的に改変したり、オリジナルの展開を差し挟んでいたが、今回は完全にオリジナルだ。しかも、原作者である福本伸行が脚本家として第1席に名が記されている。新しい物語を打ち出すのであれば、原作者の力を借りるのが、最も説得力のあるものになるという考えなのであろう。

 今回登場するギャンブルも、全てオリジナルだ。ギャンブルのテーマパーク帝愛ランドで行われる「バベルの塔」「最後の審判」「ドリームジャンプ」「ゴールドジャンケン」……これらの内容は、福本のアイディアだと聞けば、なるほどと思えるような、福本作品『銀と金』や『賭博覇王伝 零』の要素を彷彿とさせるものとなっている。

 とはいえ、すでに漫画で完結していた、前2作に登場したギャンブルと比べると、完成度が低いと感じられるのも確かだ。なかでもメインとなる「最後の審判」は、富豪が支援者によって金を積み上げていくことで人間の器量勝負をするという試みは、非常に“福本的”である。だが、無頼の物語を描いてきた『カイジ』シリーズとしては、主体が伊武雅刀演じる富豪の側にあるため、ひりつくような興奮がなく、ギャンブルの内容そのものも、関係者による金の積み合いが中心となることで、カイジの存在感が希薄だと感じられてしまう。さらに、この勝負に勝つため、カイジは命を賭ける悪魔的なギャンブル「ドリームジャンプ」に挑戦することになるが、命までは賭けないスポンサーの勝利のために、カイジが命を賭けるほどの理由が見つけられないため、不可解な展開だと感じられてしまうのだ。

 福本作品のアイディアの基本は、メインの逆転展開を支えるための逆算した仕掛けを作っていくところにあるだろう。本作では、そこに向けて序盤に登場した無職の若者たちや派遣切りに遭った時計職人たちが勝利への鍵となるが、今回は描写があまりにもあからさまなので、整えられていく段取りが手に取るように分かってしまうのも厳しい。このあたり、福本の才能をもってしても、映画作品としての脚本づくりには経験が不足していたように思われる。これもまた、映画の奥深さだといえよう。

 とはいえ、これらのギャンブルには、いままで以上にメッセージ性がくわえられているというのも確かなことだ。今回の敵である黒崎は、多大なマージンによって、雇用ビジネスで労働者を不当に搾取する“派遣王”としての属性がくわえられた。

 本作は、東京オリンピック後に経済が著しく後退し、富裕層と貧困層の差が、いままで以上に広がってしまった日本が舞台になっている。とはいえ、これは現在の日本の社会状況とさして変わりがなく、まさにいまの戯画として本作の物語が設定されていることが分かる。

 描かれるのは、利益を追い求める政治家と資本家の結託によって、末端の労働者が虐げられているという状況である。絶望のなかで、命を賭けた「ドリームジャンプ」に挑むしかない人々の姿は、労働問題によって自殺率の高い日本の縮図として、非常に直接的に表現されている。それと対照的に、政治家や経済界のトップは、札束を目の前に“万歳”を行う。この極度にカリカチュアライズされたシーンは、直接的な描写から、スマートとは言い難いが、異様な迫力と新鮮な驚きがある。

 福本作品の面白さのひとつに、比喩的な描写を、そのまま絵にしてしまうというところがある。生きるか死ぬかのギャンブルに参加しながら気を抜いている姿を、そのまま“戦場で棒立ち”する絵で表したり、逆に死地で無防備な状態に陥っているキャラクターを無垢な赤子として表現するという部分だ。本作は、貧しくなっていく国で追い詰められていく貧困層と、そういう人々を踏み潰して逃げ切ろうとする特権階級のイメージを、そのまま“身も蓋もない”絵として映し出してしまうのだ。日本の映画作品において、近年ほとんど見られなかったような、ストレートな社会批判である。これが本作における最も興味深い点である。

 藤原演じる、底辺の象徴たるカイジが、そのような光景を前に、あの高いテンションの演技で「俺たちが“日本”だろ!」「何に“ベット”するか、俺たちに決めさせろ」と叫ぶシーンには、本作のギャンブル描写がいまいちであっても、それを乗り越えるほどの凄まじさがある。そこには、特権階級だけがルールを操り、利益を得るような政治への批判とともに、大多数の庶民自身も、主体性や自分の意見を持つことの大事さまでが示唆されている。

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