山崎エマ監督が語る『小学校~それは小さな社会~』 教育について考えるちょっとした時間を

大阪の公立小学校で学び、その後インターナショナルスクールを経てニューヨークへ。2つの教育を肌で感じてきた山崎エマ監督が、自身のルーツともいえる日本の学校文化に新たな光を当てる。ドキュメンタリー映画『小学校~それは小さな社会~』の舞台は、都内のごく普通の公立小学校。1年間で700時間もの撮影を重ねた本作は、掃除や給食当番といった何気ない日常から、コロナ禍での行事の実施まで、「小さな社会」としての学校の息づかいを丁寧に記録している。
カメラが見つめるのは新1年生と6年生の姿だ。春、入学したばかりの1年生は右も左もわからず戸惑いながらも、6年生たちのさりげない手助けを受けて少しずつたくましくなっていく。一方の6年生は、自らの小学校生活の集大成として、後輩たちの成長をそっと支える。その日常の営みの中で見えてくるのは、子どもたちの確かな成長と、それを支える教師たちの奮闘の姿だ。
本インタビューで山崎監督は、日本の教育が持つ独自の価値について語る。海外で注目を集める「TOKKATSU(特活)」の意義から、変わりゆく時代の中で大切にすべきものまで。2つの文化を知る監督だからこそ気づいた、日本の学校教育の可能性とは。
インターナショナルスクールにいたからこそ気づけた、日本教育の特徴

ーー改めて基本的なところからお伺いします。山崎監督の出自として、どのような学生生活を送ったのでしょうか?
山崎エマ(以下、山崎):お父さんがイギリス人で、お母さんが日本人で、生まれは神戸です。育ちは、小学校の時は大阪の北の方の茨木市というところで、映画に出てくるような大きな公立の小学校に、自分も6年間通いました。中学校から高校までは神戸のインターナショナルスクールに通い、大学はニューヨークに行きました。なので12歳以降は、だんだんとアメリカ人になっていったというか。当時は夏休みや冬休みにはイギリスのおじいちゃんおばあちゃんの家にも行っていました。今も、日本の中と外を常に行ったり来たりするような人生です。
ーーインターナショナルスクールは、日本の公立高校などと比べて、やはり自由な空気があったりするのでしょうか?
山崎:そうですね。もう別世界って感じです。特に自分は小学校を卒業して、当たり前だと思っていることが多かったので。インターに移って初日に「いつ掃除するんだろう?」と思ったのですが、結局掃除の時間はなくて、放課後に清掃の人が来るという。そこでも自分はその方々に対する感謝が生まれる一方で、元々インターにいた子たちにとってはそれが当たり前なんです。感謝さえ生まれないというか、やってもらうものだと思う人たちで。日本のように自分のことを自分たちでやるということ、掃除だけでも象徴されるような、そういう違いをインター初日で感じました。逆に、小学校にはルールや決まりごとがたくさんあって、筆箱、下敷き、連絡帳は必須、みたいな感じで、下敷きがないともう生きていけないくらいに思っていたら、インターでは「下敷き? 何それ?」みたいな感じで。今までの考え方は1つのものに過ぎなくて、他にもいろいろあるんだなとインター時代に気づきました。
ーーご自身の中で、中学、高校になったときは開放感に近いものはあったんですか?
山崎:開放というより、戸惑いですね。基本的に言われたことをやるのが主だったのに、やっぱり自分から切り開いていかないとなかなか評価されないのがインターで、その後のアメリカ時代は特にそうでした。日本だとやっぱり、賢い子は黙ってちゃんと話を静かに聞いているみたいな印象ですけど、インターやアメリカでは発言しないと評価されないし、自分のことをアピールしていくようなことに最初は戸惑いがありました。
ーーよく言われる違いを肌で感じたんですね。
山崎:でも日本のことを否定的に見ているわけではなくて、逆に、本当に残念なところもいっぱいありました。日本の小学校に慣れていると、たとえば運動会とかは1カ月も練習するのに、インターでは全くしないんですよ。当日ちょっと駆けっこして、即興ダンスして終わるみたいな。運動会も、リハーサルもまだしていないのに、もう本番が来週に控えているみたいな。そういう物足りなさというか、こちらが作って頑張ってやるみたいなことじゃなくて、当日の楽しみだけみたいな。それも最初はすごく物足りなくて。もちろん、中学のインターで映像制作などにも出会っているので、自分の興味が出たときの、切り開ける道の種類は多かったのかなとも思います。でも、日本の中学校の体育祭とか、すごく夢だったのに、インターの隣にあった日本の学校はやってるのに、こっちはもう全然物足りないみたいな感じで。でも周りはそれを知らないから、私が何を言っているのかもわからないぐらいでしたけど、そういう感覚の違いも経験しました。
ーーそういった経験が、今回の映画製作のきっかけになったのでしょうか?
山崎:そうなんです。この映画を作ったのは、ニューヨークで大学を終えて社会人になって、編集や助手の仕事をしていたのがきっかけなんですけど、やっぱり普通に仕事しているだけなのに、「すごく働きますよね」とか「すっごい頑張りますね」みたいに言われて。「すごく責任感があって、時間通りに来て、チームワークがすごい」みたいな評価を受けたんです。でも、日本人として普通に振る舞っているだけで、自分が特別すごいとは全然思えなくて。そのときに、なんで自分はこういう人になったんだろうって考えたんです。振り返ると、日本の小学校で学んだ6年間が、明らかに自分の考え方とか行動の当たり前の軸になっていて、自分の強みとして海外生活のときに活かされたということに気づいて。でもアメリカだと、掃除とか給食を自分でやるのは当たり前じゃないし、さっき言ったように、行事も全然次元が違う。調べていくと、こういうことは万国共通じゃないことにも気づいたんです。

ーー私も海外生活をした経験があるのでよくわかります。
山崎:一方で、ニューヨークにいると、日本のことといえばお寿司とか侍とかアニメとか、本当に断片的なことしか伝わってこないんです。日本ってもっといろいろあるのにな、みたいなことを思ったりします。日本のことを知ってもらいたいなら、お寿司もいいけど、日本人の心が見えるもの、例えば私の前作『甲子園:フィールド・オブ・ドリームス』で映した高校野球のあり方とか、今作での小学校教育などを見れば、日本のことがわかるんじゃないかと思いました。それはもっと複雑な日本の状況も含めたもので、小学校を撮るならば世界に発信したいし、教育というのはつまり子どもたちについて考えることなので、日本の未来も考えることになります。そういう土俵として撮りたいなと思ったのがきっかけでした。
ーー撮影する学校を選ぶ際は、どのような過程を経たのでしょうか?
山崎:公立の小学校から選びました。ここを見れば、日本の大体の典型的な小学校が分かるから。でも、それも特定のクラスだけじゃなくて校舎すべてを撮りたくて(笑)。そういう条件を受け入れてくれる学校を見つけるのに苦労して、6年で約30校くらい行ってダメだったんです。その中で、いろんな縁で、世田谷区が東京のオリンピックがある年にはアメリカのホストタウンでもあるというきっかけがあって。私は、プロデューサーの夫がアメリカ人であったりとか、自分も結構アメリカンな感じなので、そういう年に特別にその世田谷の小学校を世界に発信したいという話なら聞いてくれるんじゃないかなってアイデアが生まれて。それから世田谷区にご縁があって、教育長とかにも賛同していただいて、それから区の中で学校を探して、ここになりました。
ーーなるほど。
山崎:結局振り返ると、自分が行った小学校に一番似ているところを選んだなって思います。映画で取り上げたかったのは、算数とか理科の授業じゃなくて、やっぱり行事で6年生が1年生を助け合うとか、合間の時間に人間形成がなされる瞬間です。そして休み時間や、子どもたち主体の時間に力を入れている学校。でも、やっぱりどこにでもありそうな、都会のど真ん中でもなく、かといって地方の田舎でもない場所という条件も含めて、この学校を選びました。

ーー150日間の撮影を通して、日本の学校の特徴や変化を感じられたことはありますか?
山崎:面白いことに、学校を回っていると「ここも来たことあるっけ?」と思ってしまうくらい、小学校の作りは構造上似ているんです。体育館の作り方や校舎とかも決まっているし。その中で、何がその学校独自のものなのかということはやっぱり撮影に入る前はわからなくて。逆に、自分の時代に比べて何が一緒で、何が違うかというところにはたくさん気づきました。変わってないところもたくさんあったんですけど、やっぱり25年、30年前の私の時代と比べたら、子どもを尊重することがより意識されている。正直、私の時代はそんなことは優先ではなくて、今よりも集団の中の一人、という感じでした。一人のために先生が授業を止めたり、クラスが止まって待つとか、そういうことがとても増えているなというのが実感です。



















