【ネタバレあり】『スター・ウォーズ』続3部作とは何だったのか 小野寺系が“失敗の理由”を解説

『SW』続3部作とは何だったのか

創造性に欠けた「エピソード7」

 エピソード7の企画が発表された後、“4 Rules to Make Star Wars Great Again(『スター・ウォーズ』を再び偉大にする4つのルール)”という、ドナルド・トランプ掲げる選挙のコピーのような題名のファン動画がネット上で拡散され、これからエピソード7を監督するエイブラムス監督に説教じみたメッセージを送るという事柄が起きた。

 その内容は、タイトル同様、非常に保守的なもので、“そもそも『スター・ウォーズ』(SW)とは、「舞台は未開の地」でなければならず、「デザインは古びている」ことが必要で、「“フォース”はミステリアス」なものとして描くべきで、「かわいいキャラクターなどいらない」のだ“と、エイブラムスに呼びかけている。それはルーカスの新3部作へのあてつけともいえる内容にもなっている。信じがたいことに、これらのファンの意見に対して、エイブラムス監督は好意的なメッセージを発し、ファンの想いは届いているということを強調した。そして完成したエピソード7は、最後のルールを除き、それらを達成するものとなってたのだ。そうなったのには、エイブラムス自体が「旧3部作」のファンボーイであったことも大きく関係しているだろう。

 だが、これらのルールが、本当に“SWの最も大事な部分”だったのだろうか。少なくとも私には、このような要素はあくまで枝葉末節な考えでしかないように思える。

『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』TM & (c)2015 Lucasfilm Ltd. All rights reserved.

 SWのディティールは、たしかに大きな魅力だが、その舞台やデザインは、「何を描くか」、「何を伝えたいか」に応じて設定されるべきものだ。ルーカスが新3部作でプロダクト・デザイナーのダグ・チャンに伝えたのは、銀河が殺伐とした戦争へと傾いていく以前の“優美さ”であった。物語を進めるなかで次第に旧3部作の無骨なデザインに近づかせることで、時代の変遷を表現していたのだ。一部のファンは、殺伐とした世界観こそが『スター・ウォーズ』だと言うが、銀河の歴史には平和で豊かな時代もあり、それが壊されていくという、現実の戦争のはじまりを表現した「新3部作」には、デザインを含めて深い意義が存在する。

 ファンの多くは、もうすでに出来上がっているものに対して、好きか嫌いかを表明することで、製作者に想いをぶつける。そこには、本来製作者が作り出すべき、全く新しい創造的要素が含まれていることは稀である。プロの作り手はファンの意見そのものには耳を貸さず、想いだけを受け取って、新たな創造に取りかかることが必要だ。そうでなければ、続編映画はただのファンムービーに駄してしまう。そして残念ながら、それこそがエイブラムス監督の手がけたSWであった。

 ジョージ・ルーカスは、エピソード7を鑑賞して驚愕していたという。かつてのエピソード4をそのままトレースしたような作品だったからだ。そして、往年のファンへの“目配せ”のオンパレード。これが、現代の映画か? 自分のアイディアを蹴ってまで作りたかった映画がこれか?……という思いに、ルーカスはとらわれたに違いない。

 エピソード7が、4を受け継ぐ作品だとして納得しようとしても、私がここに強烈な違和感を覚えるのは、このようなトレースが、あまりに表面的なものに過ぎないと思えるからである。

 例えば、エピソード1を思い出してもらいたい。最大の見せ場「ポッドレース」は、エピソード4のクライマックスである、デススター上での戦闘を彷彿とさせ、両者に存在する興奮の種類が近しいものであるように感じさせるところがある。その理由は、ルーカスが高校時代にカーレースに熱中していたと聞けば氷解するだろう。エピソード1を観ることで、エピソード4の本質的な面白さが、レースに起因していたことが理解できるのである。

 その意味においては、見た目は異なるものの、むしろエピソード4の魂を受け継いでいるのは、エピソード1の方なのではないのかと思える。エピソード4における、Xウイングやタイファイター、デススターがスクリーンで輝いていたのは、カーレースに熱中した時代のアツい想いが乗っているからなのだ。似ているメカを出せば、同じ興奮が訪れるということではない。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「作品評」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる