人生なんて88分もあればじゅうぶんだーー『COLD WAR あの歌、2つの心』が描く愛と絶望

荻野洋一の『COLD WAR』評

 ところがヴィクトルがヌーヴェルヴァーグの誕生に立ち会うことはない。『大人は判ってくれない』『勝手にしやがれ』が陽の目を見る前に、彼は、すでに失意のうちにパリを去ったズーラを追って、ポーランドに戻っていく。思えばこのヴィクトルという男は、あらゆるものを取り逃してきた男だったのではないか。パリで彼は映画音楽の仕事にも従事している。しかし彼が担当するのは、いかにもアナクロなホラー映画で、そこに馬鹿げたおどろおどろしい弦楽を付けている。ヌーヴェルヴァーグがもうそこに来ているというのに。彼の人生の選択は、彼をいっこうに幸せにしない。東ベルリンの東西境界線でズーラと待ち合わせたヴィクトルは、ズーラが逡巡の果てにとうとう来なかったことに諦め、ひとりで西ベルリンに越境していく(このシーンの設定である1952年、ベルリンの壁はまだ造られていない)。彼がポーランドを去ったあと、ソ連の独裁者スターリンの死去(1953)に伴って雪解けが起き、ワルシャワでは未曾有のジャズブームが起きている。帝国主義的音楽として禁止されていたジャズは、彼不在の母国でブームを謳歌したのだ。

 ズーラという情熱的な歌手の生きざまも、見るに忍びないものがある。パリでヴィクトルと落ち合うために、イタリア人と愛のない結婚をして西側のパスポートを取得したり、彼女がヴィクトルとの愛を取り戻すために払った犠牲の大きさは計り知れない。彼女が「マズレク」の公演でいつも歌った恋愛の民謡『2つの心』。パリでその楽曲のフランス語版をレコーディングするが、彼女は「こんなもの」と吐き捨てて、出来上がったばかりのレコードを放り投げてしまう。喪失したものの大きさを、ポーランド語オリジナル版では印象深く耳につく悲しみの「オヨヨー」のスキャットがアイドルシャンソンの小洒落たウィスパーに置換されることで、雄弁に示していた。

 ズーラとヴィクトル。情熱と失意、幻滅をくり返す一組の男女のクッツイタリ離レタリを眺めているうちに、日本映画2本をどうしても思い出してしまう。成瀬巳喜男監督『浮雲』(1955)の高峰秀子と森雅之。吉田喜重監督『秋津温泉』(1962)の岡田茉莉子と長門裕之。どちらも、十数年というスパンの有為転変をへるにしたがって男が俗物化していき、女は有り余る愛のさし向けるべき方向に難渋し、絶望を深める。吉田喜重監督みずから「美しすぎる」ことを省察した『秋津温泉』の絢爛たるカラー・ワイドサイズを、もしも『COLD WAR』が精緻なモノクローム・スタンダードの代わりに採用していたら、と想像せずにはいられないし、その版の『COLD WAR』もぜひ見てみたかった(公開資料によれば、プランの当初はカラーで撮影されるはずだったらしい)。

 愛というものは、普遍であることも永遠であることも、どうやらできはしない。そんなことは私たち一般の者ですらとっくに気づいていることだ。ズーラとヴィクトルの愛も、すれ違いやら運命のいたずらやら、時代の制約やら、たがいの自意識や虚飾やらをこうむって、とぎれとぎれなものとなり、ついには難破船どうしの再会のようなものとなり果てる。乱暴なまでにエピソードを手っ取り早く中断させるフェイドアウトと黒味画面の多用によって、ギリギリまで切りつめた省略話法が魔術的効果を発揮し、それらのとぎれとぎれの愛の座標を、スピーディーに捕まえていく。悠遠たる人生が、B級映画のように短い上映時間で、未練がましい情緒をきびしく排除しつつ、ドスンと私たちの瞳に投げつけられる。好評だった前作『イーダ』を見ていない人も、人生なんて88分もあればじゅうぶんだと言わんばかりのパヴリコフスキの剛毅な語り口に、それがどれほど重苦しい悲劇だとしても、ある種の清涼感さえ抱くことだろう。

■荻野洋一
番組等映像作品の構成・演出業、映画評論家。WOWOW『リーガ・エスパニョーラ』の演出ほか、テレビ番組等を多数手がける。また、雑誌「NOBODY」「boidマガジン」「キネマ旬報」「映画芸術」「エスクァイア」「スタジオボイス」等に映画評論を寄稿。元「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」編集委員。1996年から2014年まで横浜国立大学で「映像論」講義を受け持った。現在、日本映画プロフェッショナル大賞の選考委員もつとめる。
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■公開情報
『COLD WAR あの歌、2つの心』
ヒューマントラストシネマ有楽町、ヒューマントラストシネマ渋谷ほかにて公開中
監督:パヴェウ・パヴリコフスキ
脚本:パヴェウ・パヴリコフスキ、ヤナッシュ・クヲウァツキ、ピヨトル・バルコフスキ
撮影:ウカシュ・ジャル
出演:ヨアンナ・クーリク、トマシュ・コット、アガタ・クレシャ、ボリス・シィツ、ジャンヌ・バリバール、セドリック・カーンほか
配給:キノフィルムズ/木下グループ
後援:ポーランド広報文化センター
2018年/原題:Zimna wojna/英題:Cold War/ポーランド・イギリス・フランス/ポーランド語・フランス語・ドイツ語・ロシア語/モノクロ/スタンダード/5.1ch/88分/DCP/G/日本語字幕:吉川美奈子
(c)OPUS FILM Sp. z o.o. / Apocalypso Pictures Cold War Limited / MK Productions / ARTE France Cinema / The British Film Institute / Channel Four Televison Corporation / Canal+ Poland / EC1 Lodz / Mazowiecki Instytut Kultury / Instytucja Filmowa Silesia Film / Kino Swiat / Wojewodzki Dom Kultury w Rzeszowie

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