マルジェラの成功と悲劇にみる、ファッション産業の問題点 伝説的メゾン創始者デザイナー達の葛藤

ドキュメンタリーにみる、デザイナー達の葛藤

 ここ2年、ファッション・デザイナーのドキュメンタリー映画が立て続き公開されている。特に目立つのが、マルタン・マルジェラやヴィヴィアン・ウエストウッドなど、1970年代から80年代にかけてブランドを立ち上げた創始者デザイナーをフォーカスする作品群だ。大企業傘下メゾンの「雇われデザイナー」トレード競争が激化している今日からすれば、伝説的メゾンを立ち上げたパイオニアの物語は別世界のようにうつるかもしれない。しかしながら、彼らの成功譚と悲劇は、今日のファッションを考察する際の問いかけも与えてくれるはずだ。

 1970年代デビュー組を追った2作品を見てみよう。シューズ・デザイナーの王のキャリアを総括した『マノロ・ブラニク トカゲに靴を作った少年』は、ある種、継承を意識した遺言のような作りだ。1970年代を謳歌したマノロ・ブラニクが今日のファッション産業に情熱を感じられなくなっていることが示唆されている。反して『ヴィヴィアン・ウエストウッド 最強のエレガンス』は、70代のウエストウッドがデザイナーとしてもアクティビストとしてもまだまだ現役であることを示すパワフルな映画だ。今や生ける伝説である英国の「パンクの母」だが、長らく母国で笑い者にされてきたこと、さらには1980年代までブランド経営がパンク状態だったことが明かされている。現在、複数ラインを持つまでに至ったViVienne Westwoodは、創始者であるウエストウッドの意向に反して事業拡張をつづけている。

『ヴィヴィアン・ウエストウッド 最強のエレガンス』(c)Dogwoof

 1980年代デビュー組の映画としては、まず『ドリス・ヴァン・ノッテン ファブリックと花を愛する男』が挙げられる。「ファッション」という言葉を嫌いタイムレスな服作りを心がけるドリスによる同名ブランドは、大企業のメゾン買収合戦が始まった2000年代以降も独立を維持する貴重な存在とされている。このドリスと同期にあたるファッション史の重要人物が、今回ドキュメンタリー『We Margiela マルジェラと私たち』が公開されることとなったマルタン・マルジェラだ。

 Maison Martin Margiela(2015年よりMaison Margielaに改名)は、まさしくファッションの歴史を変えたブランドと言えるだろう。反モードを掲げてファッションを脱構築したこのメゾンは「反社会的なブランドの草分け」と評されており、今現在でもVetementsとBalenciagaを率いるデムナ・ヴァザリアやYeezyでお馴染みのカニエ・ウェストなど多くの新進デザイナーに影響を与えている。豪華さと対極な「貧困者風」コレクションやブランド表記のないタグなど、革新の例を挙げればキリがないが、映画『ディオールと私』でフォーカスされたラフ・シモンズは、地元の子どもたちが入り乱れた1989年のMargielaショーの衝撃をこのように語っている。

「一学生として、私はつねにファッションは少しばかり浅はかで、つねに派手で華やかなものだと思っていました。しかし、あのショーを見て、私にとってのすべてが変わった」

 マルタン・マルジェラは匿名的なデザイナーだ。2008年に突如ファッション業界から去ったあとも顔写真は数枚しかリークされておらず、謎の存在でありつづけている。もちろん『We Margiela』にも登場しない。このドキュメンタリーは、マルタンと創作をしたことがあるメゾンの人々による証言だ。タイトルの「We」はマルタンが使用していた一人称であり、彼含むメゾンのメンバーを指す。

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