2018年、日本映画はニューフェーズへ(後編) 『カメ止め』は夢の映画か、脱・映画か

日本映画のニューフェーズ(後編)

『カメ止め』 の文体は「脱・映画的」

 それだけに『カメラを止めるな!』が、アスミック・エースが共同配給に加わってから毎週の興収ベストテンに顔を出し、『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』や『アントマン&ワスプ』などと渡り合いつつ、より長くランキング圏内に留まり続けている国内チャートはまさに壮観であった。ちなみに『童貞。をプロデュース』や『SR サイタマノラッパー』の宣伝もしくは配給を務め、『カメラを止めるな!』には宣伝協力で関わったSPOTTED PRODUCTIONSの直井卓俊は、本作を昨年度の時点で自身の年間ベスト第2位に選出しており、さすがの慧眼ぶりを示している(『映画秘宝』2018年3月号)。

『カメラを止めるな!』(c)ENBUゼミナール

 しかし、である。率直に記すならば、筆者にとっても『カメラを止めるな!』は夢の映画であるはずなのに、作品自体の感想としては、お茶の間で違和感なく受容可能なツルッとした健全さに戸惑いを隠せなかった。これはものすごいジレンマである。松江や入江が行ったのは優れて「時代的」な表現だったが、上田はむしろそれを徹底排除。ある種純粋に作品単体で外部からの補完不要な構造を成立させ、「予備知識なしで観たほうがいい」サプライズと、明快なカタルシスを用意した。

 筆者なりに『カメラを止めるな!』の卓越を考えるならば、この作品の最初の勝因は、自主映画の撮影現場を題材とすることで、業界のコア層を味方につけるところからスタートできたことだろう。そこからアーリーアダプターやアーリーマジョリティ、レイトマジョリティへと広く伸びていく過程でも、基本的には「映画愛」、シネフィリーの映画として素直に流通していった感がある。

 だがそれは現象と表現の本質に亀裂を入れるミスリードだと思う。指原莉乃ら著名人の推薦ツイートがバズって認知拡大したことが象徴的なように、『カメラを止めるな!』の文体はむしろ「脱・映画的」なものだ。そもそも舞台劇が原案で、三谷幸喜との類似や影響が指摘されたように、本作の作劇法はシットコムの応用形である。説明的な劇伴の付け方などはテレビのほうが似つかわしい。

それは幸福なことだろうか?

 つまりはハイブリッド、「横軸」の拡張力や突破力を装備したタイプの映画なのだ。それでいて普段映画をめったに観ない人にも「映画愛」を錯覚させる巧みさがある。しかも作品にはまさに下剋上的な、無名のスタッフ&キャストたちのハンドメイドの情熱があふれている。これはとても狙って果たせるものではない。やはり極めて稀有な成功作なのだ。

『カメラを止めるな!』(c)ENBUゼミナール

 おそらくまったく良い意味で、『カメラを止めるな!』の内実としては、伏線の回収という答え合わせの快楽と、ごくシンプルな体育会的な感動の他は何もない。自己完結・自己充足的だからこそ、これ1本で過不足なく楽しめる。

 つまりこれは「小さな映画」でありながら、作品外への補助線も知的解釈も要らないという、日本映画のアトラクション的モデルの模範解答ではないのか。「予備知識なしで観たほうがいい」という予備知識が最も有効なのは、実際に体感してください!というアトラクションの消費と同じ。確かに実際ライドしてみると、多少のユルさは愛敬として、ぴったりすべての仕掛けが噛み合うメカニズムでその世界に不明瞭なものは何もない。

 しかし、では本作が日本的な娯楽映画のニュースタンダードに定着して以降、小さな玩具のようなアトラクション志向が「メジャーとインディーズの液状化」全域を覆うようになったら、それは幸福なことだろうか? 「ニュー・シネフィル」派の注意点がエリーティズムへの無自覚な閉塞だとしたら、『カメラを止めるな!』的なるものは、あっけなく保守的なポピュリズムに回収される危惧がある。

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