木村拓哉と二宮和也の組み合わせを楽しむだけではない 『検察側の罪人』の“異様さ”を解説

小野寺系の『検察側の罪人』評

 最上の人物造形には、意識的か無意識的かは分からないが、SMAP解散劇において事務所側に残ったという、「組織のなかで苦悩する木村拓哉」という漠然としたパブリック・イメージが追加されているようにも感じられるし、事務所では先輩・後輩の絶対的な上下関係のある木村・二宮という関係性もまた、作品に「深み」を与える要素になっていると思える。

 原田眞人監督がそこにさらに加えるのが、第二次世界大戦において日本軍が遂行しようとした「インパール作戦」のイメージである。「インパール作戦」とは、インド侵攻の際に日本の南方軍がイギリス軍から領土を奪うため、食料の補給ができない状況のなか無理な行軍をし、大量の死傷者が出たという、悪名高い悲劇的戦闘だった。

 補給ができないという悪条件は、さすがに作戦が討議されるなかすでに指摘されていたが、「大和魂」で突破せよという、ヒステリックな精神論が場を圧倒し、犠牲をいとわない戦いを兵士たちに強制することになったのだ。そこでの戦闘は、爆薬を持ったまま戦車に突撃するような酸鼻なものとなった。撤退する日本の兵士たちは、飢えやマラリアに苦しみ、戦友の死体の肉を食べることで生き延びようとした者たちも多かったという。彼らが進んだ道には、途上で力尽きた大量の日本軍の死体が横たわり、そこは「白骨街道」と呼ばれた。

 戦死者の数が膨大になってくると、作戦中に関わらず、現場の兵士たちを統率する師団長たちが更迭されるという、異例の事態が起こった。これが意味するのは、多くの犠牲者に対して意志決定機関に問題はなく、作戦がうまくいかないのは、「あくまで現場の人間が無能だから」ということを印象づけるためであろう。上層部の人間が、部下の命や、師団長らの立場を犠牲にすることで、自分に都合の良いストーリーを作り上げたのである。このような責任逃れが繰り返された挙句、責任の所在は曖昧なものとなり、戦後になってもこの悲劇が引き起こされたことについて断罪はされていないという。

 望みなき戦いを戦う。本作の最上は、帰り来ない少女の尊厳を守ろうと、無理のあるストーリーを作り上げ、自分の権力と詭弁を最大限に使用しながら、目的を押し通そうとした。最上自身は、そんな自分を白骨街道を歩む兵士のつもりになって、そのような夢を見たと感じたのかもしれない。だが実際には、彼は許されぬ罪を犯したばかりか、その罪を隠し責任を逃れ、自分以外の者になすりつけるという、「インパール作戦」における軍の上層部のような存在となっていたのである。

 だが本作が戦争を通して描こうとしているのは、それだけではない。平岳大が演じる、最上の友人である政治家が、いま日本社会が戦争の方向に再び向かい始めているのではないかということを語り、社会が狂気に支配されていくということに絶望していることを語らせていることはもちろん、本作で複数見られる舞踏のイメージもまた、醸成された狂気やカルト性に日本社会が侵されているということを暗示しているように思える。

 ここでは、インパール作戦という愚行が行われたことと、その断罪が行われなかったという負債、そのことと現在の日本社会にはびこるカルト性や病根というものがつながっているということを示唆しようとしている。そして、その結びつきを表す中間的な位置づけにあるものが、『検察側の罪人』の本筋における、最上検事が“踊り続ける”狂態なのである。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■公開情報
『検察側の罪人』
全国東宝系にて公開中
監督・脚本:原田眞人
原作:『検察側の罪人』雫井脩介(文春文庫刊)
出演:木村拓哉、二宮和也、吉高由里子、平岳大、大倉孝二、八嶋智人、音尾琢真、大場泰正、谷田歩、酒向芳、矢島健一、キムラ緑子、芦名星、山崎紘菜、松重豊、山崎努
製作・配給:東宝
(c)2018 TOHO/JStorm
公式サイト:http://kensatsugawa-movie.jp

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