木村拓哉と二宮和也の組み合わせを楽しむだけではない 『検察側の罪人』の“異様さ”を解説

小野寺系の『検察側の罪人』評

 重厚と軽快。これはいろいろな点において原田監督作に見られる特徴といえる。原田監督が信奉するという、ハリウッドの黄金時代を代表する監督ハワード・ホークスもまた、それらを併せ持つ映画監督だ。いかにもハリウッド的な、ダイナミックで優雅な演出を見せながらも、それだけではない数々の才能を発揮し、例えば『ヒズ・ガール・フライデー』(1940年)では、おそろしいまでのハイスピードなセリフの応酬で、コメディーでありながら観客にめまいを覚えさせたし、『三つ数えろ』(1946年)では、あまりに難解かつ複雑な脚本によって偏執的な世界を作り上げていた。これを踏まえると、原田監督が繰り出す複雑性の本質が見えてくるように思える。

 本作『検察側の罪人』は、本作のストーリーそのものとは直接関わらない、奇妙なディテールにも幻惑させられる作品だ。予告でも一部の間で話題になった、「俺の正義の剣(つるぎ)を奪うことがそれほど大事か」という、木村拓哉が発する常軌を逸したセリフをはじめとして、川岸や葬儀会場で踊られる奇妙な舞踏。「フレンチトースト」と言って運ばれてくる、まったくそうは見えない料理や、トマトの中にチーズの入った必然性を感じない創作料理。松重豊が演じる闇世界のブローカーがバーテンダーをする奇妙なバーなど、そこには本作が綿密に組み上げていくリアリズムを自ら瓦解させるような、現実を超越したシーンが挿入されていく。この混乱、この混沌こそが本作をいびつに、そして単純なエンターテインメントを超えた世界を現出させている。

 同じく日比谷公園が印象的に映される、原田監督の過去作『金融腐蝕列島 呪縛』(1999年)は、大手銀行の経営危機を描いた、リアリティのある社会派ドラマだが、やはり異様な描写が散見されていた。仲代達矢が演じた会長の豪華な居室には、雌(めす)の狼と、その乳を吸う人間の赤子が象られた像が設置されていたが、これはローマ帝国の建国にまつわる神話をモチーフとしたものだ。つまりここでは、大銀行の没落と、崩壊したローマ帝国のイメージが重ね合わされているのである。さらにオープニングにおいて、日本の戦後復興から高度経済成長までが紹介されていたように、そこには経済大国・日本そのものの没落が描かれていたともいえる。このように重層的な構造が、作品を複雑に、また異様な熱量を帯びるものにしていったのだ。

 同様に、本作で木村拓哉演じる、東京地検の最上(もがみ)検事が発した、「俺の正義の剣を奪うことがそれほど大事か」というセリフも、ギリシア神話、ローマ神話に登場する、秤(はかり)と剣を持ちながら法を司る「正義の女神」を暗示するものであろう。秤は「公正に判断する」ということであり、剣は「裁きを下す」ことの象徴である。そのどちらが欠けても正義の裁きを下すことはできないという思想だが、この「剣(つるぎ)」という象徴的要素にこだわる最上検事の姿が表しているのは、私情にとらわれたために公正さを欠き、断罪のみにこだわる常軌を失った狂人なのである。

 この「剣」が暗示するものはそれだけではないだろう。ここで思い出されるのは、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『マクベス』である。主人公である将軍マクベスは、宙に浮いた剣のまぼろしに誘われるまま、主君を殺害し自らが王と成り代わった。だが彼は日々、罪と強迫観念にとらえられ、常軌を失ってゆく。

 冤罪をかぶせることによって、ある人物への復讐を成し遂げようとする最上検事の狂態は、そんなマクベスのように凄まじくもおそろしい。目的を完遂するために手段をいとわず、保身のためなら自らを慕う、二宮和也が演じる新人検事・沖野を切り捨て、自分の娘を事件に巻き込むことさえしてしまう。最上自身が思わず「正義の剣」という言葉を発したように、かつて沖野が憧れた最上の出発点というのは、理不尽な悪を裁くという「正義」だったはずだ。しかし彼の理想は、彼のなかでそれ自体が至上の目的となってしまったために、「それを執行するためならどのような悪も許される」という身勝手な考えに堕落し、逆に「悪」そのものになってしまったのである。

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