山田洋次の“総括”は正しかったのか? 『妻よ薔薇のように』から感じる日本映画史の皮肉

荻野洋一の『家族はつらいよIII』評

 『妻よ薔薇のように 家族はつらいよIII』は、今年87歳を迎える巨匠・山田洋次監督の86作目だが、このタイトルは日本映画史上の名匠中の名匠、成瀬巳喜男(みきお)監督の『妻よ薔薇のやうに』(1935)から採ったものだ。と同時に、夫婦げんかと妻の家出をあつかった本作としては、結末をあらかじめ観客に明示した形を取ってもいる。つまり、妻よ薔薇のようにとタイトルで言っている以上、最終的に夫婦は仲直りするし、妻への讃歌を謳い上げると、最初から宣言したようなものだ。

 そして最初から“今回はナルセで行こう”とも決めていたのだろうか? なんども夫婦間の危機や崩壊を題材に映画を作った成瀬巳喜男に倣うかのように、ここでは3世代同居一家の主婦(夏川結衣)は、夫(西村まさ彦)の心ない言葉に傷ついて出奔し、郷里の実家にひとり戻る。まるで成瀬の代表作『めし』(1951)における原節子と上原謙の夫婦のごとし。じっさいカルチャースクールのシーンでは、講師の男(木場勝己)がその原作となった林芙美子の未完小説『めし』に言及するばかりか、教室の黒板にはそのタイトルが大書されている。さらには夏川結衣を迎えに彼女の郷里に向かう西村まさ彦の車には、突如として夕立の粒がウィンドウを激しく打ち始めさえするのだ。ここまでやれば何をかいわんや。

 今回で第3作を数えるこの『家族はつらいよ』はもともと、『東京家族』(2012)という、『東京物語』(1953/小津安二郎監督)のリメイク的作品のスピンオフのような位置づけで2016年から始まったシリーズだ。『東京家族』のキャスティングをそのまま流用し、シリアスな同作を換骨奪胎してパロディ的喜劇に仕立て直す。『男はつらいよ』シリーズで鳴らした山田洋次としては、得意の形に持っていったようなところがある。じつのところ、松竹大船の偉大な先輩、小津へのオマージュとして企画された『東京家族』だったが、作品自体ははしばしに小津に対する拒否反応の感触があって、かなり居心地の悪い作品だった。独立した子どもたちのエゴイズムに直面した老夫婦を、かつての笠智衆と東山千栄子は飄々と演じたものだが、『東京家族』では老父(橋爪功)がいきなりキレて「もう二度と東京になど来ないぞ」などとスゴンで見せ、あの一言で作品全体がいっきに東京vs地方の都会批判の図式性に陥って、台無しとなってしまった。単に小津にオマージュを捧げるだけでは自分の柄ではないという反省があったのかどうかは分からないが、とにかく『東京家族』の小津的な家族構造は、寅さん的な「分からず屋どうしの小戦争」としての家族構造に置換され、命が吹き込まれた。

 小津の映画は、小津の生前から若手映画人によって批判的突き上げの対象となっていた。学園紛争、労使闘争と社会が変革されようとしているさなかにあって、あまりにもブルジョワ的、日本的、保守的だという(今にしてみれば的外れな)突き上げである。大島渚、吉田喜重ら、いわゆる「松竹ヌーヴェルヴァーグ」の新人監督たちはその批判精神を自作の中に大いに込めようとしたし、吉田喜重にいたってはその著作『小津安二郎の反映画』(1998 岩波書店刊)でもあきらかなように、生涯を賭して偉大な小津との齟齬そしてリコンシリエーションを言語化してきた。いっぽう山田洋次は、同期入社の大島ら反骨分子がみな松竹大船から飛び出していったあと、大船の新たな王として君臨することになる。1960年代のスタジオシステム崩壊期に王となった山田にとって、戦前戦後と君臨した先代の王たち、つまり小津や木下恵介との相克は二の次の問題であって、いかにして会社の斜陽化に抗うかという責任が優先されたのだ。

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