「動機だってどうだっていい」 法医学を描いた『アンナチュラル』が別格なドラマになった理由

『アンナチュラル』が別格な作品になった理由

 多くの日本のドラマが不可解な“死”と向き合うとき、決まってそこに犯人と呼ばれる存在が最重要なファクターとして存在する。刑事ドラマ、探偵ドラマ、いずれにしても主幹となるミステリー要素である“死”を作り出した犯人の存在と、いかにそれを隠したかのトリックがフィーチャーされるか、もしくはサスペンス要素の一旦として、犯人とそれを追う者の攻防が描き出されていくことが定説だ。

 ところがこの1月クールに放送された『アンナチュラル』(TBS系)は、不可解な“死”を中心に据えながらも、それを作り出した者の存在に固執しない。いや、たとえば推理を駆使して真相に迫ろうとする大学生バイトの久部六郎(窪田正孝)であったり、8年前に婚約者を殺した犯人への復讐を目論む中堂系(井浦新)という登場人物がドラマを盛り立てていたが、その一方で肝心の主人公・三澄ミコト(石原さとみ)は最終回の裁判の場面、26人を殺めた被告に対してこう言い切る。

 「ご遺体を前にしてあるのはただ命を奪ったという取り返しのつかない事実だけです。犯人の気持ちなんてわかりはしないし、あなたのことを理解する必要なんてない。不幸な生い立ちなんて興味はないし、動機だってどうだっていい」。

 この言葉に象徴されるように、“法医学”というあまりにもドラマティックになり得ない分野を取り上げたこの作品は「(何らかの形で)命が奪われた(or失われた)」というただ一点に意識を置いて、その“死”の主体的なバックグラウンドだけをひたすら深掘りしていく。“死”によって突発的に“ドラマティック”を始めることはせずに、すでに存在していた死者と生者の“ドラマティック”が不可解な“死”をもって切り離される部分にすべてを託していたのだ。

 そこには必然的に、残された生者が“死”と向き合っていくためのあらゆる方法が描き出されていく。主人公のミコトは幼い頃に家族を一家心中で失う。自分だけが生き残り、三澄家に引き取られて新たな家族を得る。また、中堂は長年追い続けた犯人への復讐心を強めていくにつれ、亡き婚約者への想いを表出させていく。「会いたいって想いが死者に会わせるなら、俺は想いが足りないんだな」の台詞は、犯人への憎悪を何百倍も上回る強い愛情が表れた言葉だ。

 それはもちろん主要キャストだけでなく、ひとつひとつのエピソードのゲストキャラクターにも同じことが言える。第5話で登場した青年のエピソードは、その最たるものではなかっただろうか。婚約者が突然溺死し、その死因を解明するために主人公たちの勤めるUDIラボに解剖を依頼する。半ば駆け落ちで一緒になろうとしたことから、その婚約者の両親から邪険に扱われていた彼は、彼女の遺体を盗み出したのだ。

 盗まれた遺体を解剖することはできないと依頼を拒否し真摯に青年と向き合う主人公たちの理性的な姿と、誰が最愛の人を殺したのか知りたがる青年の姿。そして“死”の真相が確信に変わった瞬間、その青年が見せた深い闇と憎悪を携えた冷たい瞳。このエピソードの結末は、日本のドラマ史に残る衝撃のフィナーレだったことは言うまでもない。そして彼の強すぎる想いから生まれた新たな犯罪と“死”への予兆は、そのままこのドラマの終盤へともつれていくのだ。

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