“ユニバース”過剰時代における、『マイティ・ソー バトルロイヤル』の役割

荻野洋一の『マイティ・ソー』評

 『マイティ・ソー バトルロイヤル』の魅力とは何だろう? アイアンマン、ハルク、キャプテン・アメリカ、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー、アントマン、ドクター・ストレンジ、そしてこの夏にようやくスパイダーマンも加わり、スーパーヒーローの大盤振る舞いによって膨張に膨張を重ねた『アベンジャーズ』のシリーズ全体の環境にとって、マイティ・ソーの新作がどんな役割を担っていこうとしているのだろうか?

 マーベルスタジオの2つのシリーズ環境、つまりマーベル・シネマティック・ユニバース(以下、MCU)とX-MEN。一方DCコミックスにはDCエクステンデッド・ユニバース(DCEU)。これに加えて、今夏にユニバーサル社がダーク・ユニバース(DU)の名のもとに『ザ・マミー』で参戦して、アメコミ系のジャンルフィルム(ダーク・ユニバースは正確にはアメコミではないけれども)は供給過剰の時代に入ったように思える。事実、個々の作品評価は上々でも、期待したほどヒットに結びつかないものも出てきた。

 最近の日本公開作品をざっと列挙してみると、1月『ドクター・ストレンジ』(MCU)、6月『LOGAN/ローガン』(X-MEN)、7月『ザ・マミー』(DU)、8月『スパイダーマン:ホームカミング』(MCU)、同月『ワンダーウーマン』(DCEU)と続いてきて、11月には本作『マイティ・ソー バトルロイヤル』(MCU)、12月『ジャスティス・リーグ』(DCEU)、2018年3月『ブラックパンサー』(MCU)、同4月『アベンジャーズ インフィニティ・ウォー』(MCU)、同夏『アントマン&ワスプ』(MCU)というふうに、途切れることなく延々と継続していくことになる。もう、ここまでくるとマニアックな客層をのぞいて、全部を見ている観客の方のほうが圧倒的に少ないだろう。はっきり言わせてもらうなら、アメコミ系の映画だけが映画ではないのだ。他にも見たい映画、見なくてはならない映画が目白押しなのに、「〜ユニバース」の込み入ったサーガ環境に付き合い続けるのも、いささか疲れたよ。そうお思いの方も少なからずいらっしゃるはずだ。

 『マイティ・ソー バトルロイヤル』はそんなさなかに公開される。ヒットするかどうかは知らない。ただ、アメコミ系の映画ジャンル全体の膨張しきった超合金のバルーンに、千枚通しで風穴を開けてみせたのである。MCUは昨春の『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』でひとつの頂点をきわめたと思う。それはヒーロー映画の最終地点へのチケットであり、ヒーロー映画の不可能性さえをも指し示す端緒となった。同作が見る側に強いる緊張感は、エンターテインメントとしては不遜なほどにギスギスしていた。観客はこの作品をどのように受け取ったのだろうか? 筆者はもはや楽しむというより、緊張して見ていた。どこかその辺のアウトローが、何かの誤解でまかり間違ってヒーローに転じてしまうというでたらめな愉快さこそ、アメリカ映画の伝統的な基本線だと思う。でも、ヒーローがアウトローに零落するというのは、見ていてつらい。身につまされる。たとえば『LOGAN/ローガン』は、伊藤大輔監督『忠次旅日記』3部作(1927)の悲愴さにも匹敵する。MCUも『シビル・ウォー』で行き着くところまで行き着いてしまったように思える。

 一方、『マイティ・ソー バトルロイヤル』はかんたんに言うなら、揺り戻し効果に向いている。国連の科す協定を是々非々で論じ合ってがんじがらめとなったアベンジャーズの政治的負債を、無責任にご破算とする。キャプテン・アメリカの転落はただただ悲愴で見ていてつらい。ところがマイティ・ソーの転落は、楽天的である。バカに付けるクスリ程度のお仕置きとして見ていられる。そもそもマイティ・ソーとは、最初から転落する身体ではなかったか。シリーズ第1作『マイティ・ソー』(2011 ケネス・ブラナー監督)からして、王位継承者たるマイティ・ソーはご乱行によって追放され、地球で雌伏の時間を過ごさねばならなかったのではなかったか。はじめに追放ありき。いわばマイティ・ソーは、貴種流離譚のパロディなのである。

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