“ユニバース系”が『スパイダーマン:ホームカミング』にもたらした光と影
今年の初夏以降のアメコミ系映画の勢いが怖ろしいことになっている。6月に『X-MEN』の渋いスピンオフ『LOGAN/ローガン』が日本公開されて、7月『ザ・マミー/呪われた砂漠の王女』、8月『スパイダーマン:ホームカミング』『ワンダーウーマン』、少しとんで11月にはバットマン、ワンダーウーマンらが一堂に会す『ジャスティス・リーグ』と続いていく。それなりに高額予算のかかりそうなこれらスーパーヒーロー物だが、ハリウッドメジャー各社はこれらの製作に余念がない。正確にいうと『ザ・マミー』はアメコミ原作ではないが、筆者は、上記のようにアメコミ的な世界観を借用しつつ無限大にクロスオーバーさせていく作品群を、仮に「ユニバース系」と名づけている。この「ユニバース系」的なるものは、アメコミ出版界では物語を延命させるために使われてきた古典的な手法だが、映画でそれが堂々とまかり通るようになったここ数年というのは、NetflixやHuluなど勃興するネットメディアへの対処という側面があることだろう。
ただし筆者はここでアメコミ映画の発展史を解き明かしたり、たがいにクロスオーバーしつつ果てしなく込み入ったキャラクターやエピソードの解説をしたりする任にはない。そうした需要は「映画秘宝」誌にお任せする。その代わりに筆者が言及し、提示したいのは、2010年代になってますます加速し、アメリカ映画の興行を覆い尽くした観のある「ユニバース系」が、あくまで古典的なアメリカンヒーローであったはずのスパイダーマンの物語と映像に、いかなる光と影をもたらしているのかという、その一点に尽きる。自由気ままで孤独な都会型スーパーヒーローだったスパイダーマンは、『アベンジャーズ』で統合された《マーベル・シネマティック・ユニバース》の環境に取り込まれ、補強され、また同時に足枷をもはめられた。足枷をはめたのは、『アベンジャーズ』の総帥をみずから任じるトニー・スターク/アイアンマンのように見えるが、じつはそうではない。ピーター・パーカー/スパイダーマンを縛ったのは、15歳の新人その人だったのである。
ピーター・パーカー/スパイダーマンは、彼が初登場した『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』でアベンジャーズにリクルートされ、お上りさん気分で戦闘に参加し、スマホで自撮りまでしてはしゃいで見せた。彼は自分のことを「15歳でアベンジャーズ加入を許可される天才」だと勘違いしている。しかし、その後は何ヶ月もお声がかからない。ユース年代のサッカー少年がJリーグのトップチームに一度呼ばれるのとよく似ている。つまりスパイダーマンは《マーベル・シネマティック・ユニバース》環境にあって、才能はあるが、まだ未熟な育成年代の少年にすぎない。「ボクできちゃうよ」と売り込みばかりかける彼は、おのれの才能を過信するクセがあり、大人たちは彼を諫めなければならない。トニー・スターク/アイアンマンは「君の行動範囲はこんな程度だ」と指の先を示して見せ、「しばらくはご近所様のローカルヒーローでいろよ」と続ける。トニー・スタークはピーター・パーカー/スパイダーマンを抑えつけようとしているのか?──いや、その逆で、トニー・スタークはスーパーヒーローのあるべき幸福論を説いているのだ。
酔っ払った勢いで馬鹿をしでかしたり、傲慢な性格で世間から嫌われたりしていたアンチ・ヒーロー、アイアンマンのアナーキーな魅力が急速に失われ、風通しが悪くなってきたのは、思えば『アイアンマン3』(2013)あたりからだろうか。無頼漢の無謀さを魅力的に描いた『アイアンマン』シリーズの功労者ジョン・ファヴロー監督は『アイアンマン2』(2010)を最後に監督の任を退いて、一出演者(トニー・スタークの助手兼運転手のハッピー・ホーガン役──本作『スパイダーマン:ホームカミング』にも登場する)に徹し、一方で、もっと自分のやりたい企画である『カウボーイ&エイリアン』(2011)、『シェフ 三つ星フードトラック始めました』(2014)の監督を務め、表現を深化させていった。『アイアンマン3』あたりからアイアンマンは、なにやら大統領直属の公安部隊のような存在になってしまった。さらに、『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』で描かれてしまった、例の「ソコヴィア協定」。アベンジャーズ一味は巨大な悪を倒すという世界貢献を果たす一方、派手な戦闘の結果生じる経済的損失、あるいは一般市民の犠牲に対する国際的批判が高まり、アベンジャーズの活動を国連管理下に置くことを定める法律が「ソコヴィア協定」である。俗に「超人管理法」とも呼ばれるこの協定に署名する派閥と、署名に反対して権限の独立を主張する派閥が対立し、アベンジャーズ間で内戦に発展するという、なんとも陰惨ないきさつが延々と描かれるのが、『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』である。あの作品の異様な迫力は、いきさつの陰惨さにある。