荻野洋一の『エリザのために』評:クリスティアン・ムンジウの映画とは“負ける映画”である
生活が苦しい。仕事が苦しい。社会との駆け引きが、家族との絆が、妻(夫)との不仲が苦しい。人生は本当に厄介で、難しく、こんなはずではなかった。子どもの頃はもっとシンプルに、結婚や出産、育児、出世、昇給についてがんばれば何とかなると考えていたのに。しかし、どれひとつ取っても、満足に値するレベルまで届く分野など、自分にはないではないか。
映画『エリザのために』は、そうした平々凡々とした、どこにでも転がっている生の厄介さを、ロメオという一人の父親(夫)に密着マークして撮りあげた、ヒリヒリと心が痛くなる作品である。「ボヴァリー夫人は私だ」と述べたという小説家ギュスターヴ・フローベールではないが、私たちはこの映画を見ながら、「ロメオは私だ」と心中叫ばないとすれば、その人はよほどの聖人君子か、よほどの鈍感か、そのどちらかだろう。
監督のクリスティアン・ムンジウは東ヨーロッパの国ルーマニアの出身で、長編第2作『4ヶ月、3週と2日』(2007)でカンヌ国際映画祭で最高賞にあたるパルム・ドールを獲得し、世界の第一線に躍り出た。ここ10年ほど、ネッツァー、ポルンボユ、プイウなど、ルーマニア・ニューウェイヴと呼ばれる映画作家たちの活躍がヨーロッパで目を引くが、クリスティアン・ムンジウはその中心的な存在と言える。第3作『汚れなき祈り』(2012)もカンヌで脚本賞&女優賞のダブル受賞、第4作である本作も監督賞を受賞し、ベルギーのダルデンヌ兄弟やトルコのヌリ・ビルゲ・ジェイランと並ぶカンヌ・マスターのような存在になっている。しかしあまりの順調なキャリアゆえに、「ヨーロッパで評価されやすい映画、国際映画祭で賞を貰いやすい映画」と当てはめられてしまう評価も散見される。
イギリスの『タイムアウト』誌による「ダルデンヌとハネケを合わせたよう」という評言は、まさにクリスティアン・ムンジウの作品がどのように受け取られているかを雄弁に物語る。ダルデンヌ兄弟もハネケもカンヌなどヨーロッパの名門映画祭で無類の強さを誇る映画作家たちで、賞獲りの上手さを皮肉ってもいるのかもしれない。手持ちカメラによるリアリズムは、ダルデンヌ兄弟に通じるし、事実この『エリザのために』の共同プロデューサーにダルデンヌ兄弟がクレジットされているのだ。
そう見ると、何だか出世主義者の抜け目ないやり口につき合わされるようで気が滅入ってくるのだが、それに対する処方箋は、作品そのものを見ることの中にしかない。主人公の取るあらゆる行動、“よかれ”と思って下した判断がことごとく事態を悪化させ、複雑化させていく。ロメオは娘エリザの英国ケンブリッジ大学への留学が叶うよう、試験採点の不正を友人のツテを使って画策するし、妻子がありながら、35歳の未婚の母と不倫してもいる。この男に共感する観客はひとりもいないだろう。でも、彼の犯した間違い、彼の取りつくろう嘘、時間稼ぎ、後悔の涙、その喜怒哀楽のすべては、私たち観客自身のものである。共感はしないけれども、いつのまにか共同歩調をとっている。それが、この『エリザのために』という映画のもつ魅力であり、悲しさであり、滑稽さでもある。この映画の抱える悲しみも滑稽さも、私たち自身の悲しみであり、滑稽さである。
堕胎についての女性の生々しい自己保身の記録『4ヶ月、3週と2日』もそうだったが、ムンジウの映画には容易に出口が見つからない。登場人物の行く手はつねに八方ふさがりであり、彼らはつねに七転八倒している。彼らは決して清廉な生き方を選べておらず、うさん臭い生き方のツケを支払わされている格好だ。
それにしても主人公のロメオはなぜ、あらゆる犠牲を払っても娘をケンブリッジに留学させたがっているのか? それは彼自身が述べていたように、ルーマニア革命の挫折ゆえである。1989年の革命でチャウシェスクの独裁体制が打倒され、ロメオと妻は1991年に希望を胸に亡命先から母国ルーマニアに帰国したのだそうだ。だが、民主化運動は停滞し、共産主義時代以上に絶望的な汚職と不正のはびこる社会になってしまった。「自分たち夫婦のようになってほしくはない」とたびたびロメオは娘のエリザに向かって、懇願するように言い放つ。愛する娘のためなら、自分の手を汚すのを躊躇わない。その思いつめた心情だけは、どうやら本物だ。
突破口はあるのか? 映画作家は突破口をあざやかに提示することを拒否する。そして彼の映画それじたいが、いかなるアクロバットもウルトラCも有していないのである。世の中には、どうしようもなく映画の原理が丸裸のまま露呈してしまうというような映画と映画作家が存在する。それは天才による仕事である。私たち観客は彼らの営みを裸形の形で祝福したり、ブーイングを浴びせさえすればいい。しかし、ムンジウの映画はそうではない。彼の映画は愚直なまでにリアリズムを追究し、愚かな登場人物に寄り添うことをあきらめない。アクロバットもウルトラCもない。弱者に寄り添い続け、また映画の理想からも隔てられた“映画弱者”による映画なのだと言っていいのではないか。