音痴歌手が人気者になるのは美談なのか? 『マダム・フローレンス!』が突きつける、現実の二面性
本作のクライマックスは、やはりカーネギーホールでの公演の場面である。そこに慰安として特別に招待された兵士たちは、マダムが傷つかないように、気をつかって笑いをこらえてくれるような紳士ばかりではない。そもそも、公演自体をコメディーだと思っている者の方が多そうだ。つまり、音楽を心から愛して歌を大事にしているマダムにとっては、本質的な意味でとてつもない「アウェイ(敵地)」なのである。ここまでの窮地に立たされる歌手など、ほとんどいないだろう。私はこのクライマックスを、映画による音楽シーンのなかで、かつてないほどに心をかき乱されてしまった。
マダムは若い頃、親に音楽留学を反対されて、ある男と駆け落ちし結婚していたことが、本作で語られる。その男は遊び人で、マダムは梅毒をうつされてしまっていた。当時は梅毒は「死の病」であり、マダムほど長く生きる例はまれであったという。そこでマダムが受けた精神的な屈辱と、闘病の苦しみは、周囲からおだてられていい気になっている、地に足がついていない滑稽な歌手のイメージとは真逆の、きわめてシリアスなものである。
そんな彼女が生き抜くために必要としたのが、音楽への情熱であり、逆を言えば、彼女がここまで音楽に情熱を傾ける動機になっているのが、彼女が体験した悲劇であったとも表現されているのである。その二面性こそが、本作におけるマダム・フローレンスという人間の存在そのものなのである。そして、過去作で異なる人格をカメレオンのように変化させてきたメリル・ストリープの演技の幅広さが、遺憾なくここで発揮されているといえるだろう。
マダムが意外にも、伴奏者の皿を洗ってあげる場面は、レッスンシーンの滑稽さと打って変わって荘厳である。悲しみとよろこび、嘲笑と尊敬、そして、悪意と愛。世界は単純でなく、あらゆるものが拮抗する危うさに満ちている。公演の場面が激しく心をかき乱すのは、ここでのマダムの苦しい逆境が、彼女の内面の強さや純粋性をより際だたせ、ある意味で聖なる存在へと昇華させていると感じられるからであるだろう。ここで思い出されるのは、映画史に輝く名作中の名作である、カール・テオドア・ドライヤー監督の『裁かるゝジャンヌ』にて、火刑に処されようとするジャンヌ・ダルクの、やはり聖と俗をともなった圧倒的なイメージである。フリアーズ監督とメリル・ストリープのコンビは、エンターテインメントとして本作を成立させながらも、期せずしてとんでもない深淵に足を踏み入れてしまったのかもしれない。少なくとも、私にはそう思える瞬間があった。
■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter/映画批評サイト
■公開情報
『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』
12月1日(木)TOHOシネマズ 日劇ほか全国ロードショー
監督:スティーヴン・フリアーズ『クィーン』『あなたを抱きしめる日まで』
出演:メリル・ストリープ、ヒュー・グラント、サイモン・ヘルバーグ
原題:FLORENCE FOSTER JENKINS
配給:ギャガ
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公式サイト:http://gaga.ne.jp/florence/