映画『怒り』は妻夫木聡らの実力をいかに引き出したか? 演出と編集の見事さを読む
殊に原作で上下巻、3本の映画をまとめるかのような作業を行うにあたって、〈編集〉を脚本執筆時から意識していたのが成功の大きな要因だろう。特徴的なのがフラッシュフォワードと呼ばれる未来の瞬間を現在の時制にインサートする手法や、台詞のずり上げ、ずり下げである。冒頭の犯行現場を刑事たちが捜査するシーンで、同じ場所の過去、つまり犯行時の犯人の行動を同じタイムライン上に挿入して見せるあたりから、本作の編集技法が見えてくるはずだ。順を追って描いたり回想を入れると尺を食うので効率的に語るためにこうした手法が取り入れられている。それを編集段階ではなく、撮影前から意図したことで、本作の巧みな語り口が生まれている。渡辺謙が娘の宮崎あおいを探し出し、風俗店の店主から話を聴いている画と音を基調にしつつ、店の廊下を進んで娘と対面する画を入れることで、このシーンで描くべきことは埋まる。沖縄の無人島に広瀬すずが友人とボートで乗り付け、ひとりで島を歩き、廃屋を見つけるくだりも同様の手法で大幅な時間短縮が行われ、観客もそのテンポの良さに心地良くひたることができる。
本作の編集が巧みなのはフラッシュフォワードだけではなく、意識的に記号や感情で繋げたことだろう。例えば犯行時に犯人が被っているキャップの次のカットは、繁華街で娘を探して歩くキャップを被った渡辺謙である。宮崎が聴いている音楽をイヤホンで渡辺に聴かせると音楽が大きく鳴り響き、新宿二丁目のゲイパーティへと移行する。コンビニ弁当を食べる松山ケンイチ→コンビニでおにぎりを手に取る綾野剛もそうだが、記号による接続で無関係なエピソードが観客にとっては繋がりを持ち始める。
台詞も同様で、沖縄の少年が広瀬を映画に誘おうとして言い出せない次のカットで、渡辺が松山に「最近、愛子とちょくちょく出掛けているみたいだな」と言うように、別のシチュエーションで前のシーンで寸断された台詞の続きを聞かせることで、観客はシームレスに3つのエピソードを観ることができるようになる。愛子の「私わかるんだよ。泣いたって誰も助けてくれない」という自身の経験を語る言葉は、観客にとっては当然、広瀬が暴行を受けるシーンに繋がっていく。また、綾野にバックから挿入する妻夫木→米兵にバックで犯される広瀬、三角座りしている綾野に妻夫木が近づく出会いのシーン→沖縄の少年の部屋へ森山が入っていくシーンへと、状況は違えども同じポーズが反復されるところから、3つの物語がやがてどこへクローズアップされていくかを予感させる。
こうした見事としか言いようがない工芸品のような作りで142分、一瞬たりとも退屈させない。だが、後半に行くにしたがって疑問がわいてくる。これが実は同時間軸と思わせているだけで、3人が同一人物を演じているのなら良いが、そうでないなら、手配写真に似ているのはいいとしても、特徴的な黒子の位置まで同じとは偶然すぎではないかと思えてくる。それまで人のよかった3人のうちの1人が、性格が急変したような行動を取るのも唐突すぎる。
肝心の怒り――当事者に直接ぶつけられずに他者へ怒りの矛先が向かう理不尽さが、巧みな演出と演技と編集で誤魔化されてしまったような違和感が増してくる。本作のプロデューサー・川村元気は「物語の中心、核心部がドーナツの穴みたいになっていて、空洞であることにちゃんと意味がある。(略)映画にするならば、周りの生地を描写しながら、穴と生地との境目も見せなければならない」(『キネマ旬報 2016年9月下旬号』)と語るが、確かに意図通りの映画になっている。生地がみっちりと詰ったドーナツは食べごたえがある。ドーナツの穴を欠陥品と呼ぶ者はいない。だが、最初から穴であることが自明になりすぎてはいないだろうか。周辺の生地を噛むとまるで穴などなかったかのように生地が広がるところまではいかないところに物足りなさを感じてしまう。
■モルモット吉田
1978年生まれ。映画評論家。「シナリオ」「キネマ旬報」「映画秘宝」などに寄稿。
■公開情報
『怒り』
全国東宝系にて公開中
監督・脚本:李相日
原作:吉田修一「怒り」(中央公論新社刊)
出演:渡辺謙、森山未來、松山ケンイチ、綾野剛、広瀬すず、佐久本宝、ピエール瀧、三浦貴大、高畑充希、原日出子、池脇千鶴、宮崎あおい、妻夫木聡
配給:東宝
(c)2016映画「怒り」製作委員会
公式サイト:www.ikari-movie.com