映画は人類史における一大犯罪をどう描くべきか? 『サウルの息子』の演出が投げかける問い

『サウルの息子』撮影手法の革新性

 磨りガラスごしのような、ピントの合わない強くぼやけた風景。そのなかでぼんやり動く影が、こちらに近づいてくる。それがどうやら男だと分かり、この映像を写しているカメラのそばまでやって来て、その顔にピントが合わさり像をむすんだところで、彼を主人公にした物語が始まる。本作『サウルの息子』では、この珍しいオープニングの演出から、すでに作り手の主張が始まっている。これだけでなく、この作品ではいくつもの特異な演出的手法が数多く使用されている。そのひとつひとつを見ながら、「映画表現とは何か」という根源的な問いを引き起こす『サウルの息子』という作品の本質に迫っていきたい。

 人間の眼は現実の風景を見るとき、自分の見たいものに、ほぼ自在に焦点を合わせることができる。だがすでにカメラによって撮られた映像作品を見るときは、それを半ば「強制的に」決められてしまう。どんなに目を凝らしたところで、ぼやけている映像はぼやけたままなのである。多くの映画ではこれを利用して、見せたい部分、例えば女優の顔や拳銃などに観客の視線を集中させ、ぼやけた部分をただの背景として意識させないことで、作り手の意図を伝えやすくしている。だがこのオープニングは、主人公の顔をはっきり映すまで、ぼやけている映像だけを延々と観客に見せている。つまりこの映画では、「ぼやけている部分は意識する必要がない」という常識をいきなり破ってくるのである。そして映画には、そのようなぼやけた部分とピントの合った部分、隔てられたふたつの「世界」が存在しているということを印象付けるのだ。

 近代において人間が行った最悪の歴史的犯罪の中に、ナチスドイツによるユダヤ人大量虐殺がある。国内外から集められた大勢のユダヤ人が、ユダヤ人であるというだけの理由で、囚人として収容所に押し込まれ、主に毒ガスによって集団単位で殺害された。大量の死体を処理する作業は、軍が選んだ一部の囚人たちが強制的にやらされていたという。彼らは「ゾンダーコマンド」と呼ばれ、一般の囚人のように速やかに殺されることはなかったが、秘密保持のため、結局はだいたい数ヶ月のうちに殺害された。その作業中に自分の家族の遺体を見つけ処理をするというケースもあったという。彼らは「いま殺されないため」に、ナチスに従い地獄のような作業を繰り返すしか選択肢が無かったのだ。

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 その史実を基にして脚本が書かれた本作の主人公・サウルは、ゾンダーコマンドとして日常的に死体処理をやらされている、ハンガリー出身のユダヤ人だ。本作のカメラは、処理作業を行うサウルの顔や背中などを追いかける。彼の周囲に広がっている収容所内の残酷な光景は、その隙間でぼやけた映像として映っているのみだ。観客は、普通ならば画面のなかのぼやけていない部分を注視するはずである。だがここでは、むしろぼやけている部分に集中せずにおれなくなっている。この価値の転倒が、本作『サウルの息子』の映画演出において、最も奇妙で驚くべき点である。

 このぼやけた映像とともに、本作で特徴的なのは画面サイズだ。正方形にも近い従来のブラウン管のテレビ画面と同じ縦横の比率は「スタンダード」と呼ばれ、映画の初期に利用されたものである。その後、映画独自の迫力と見やすさを追求することで、劇場で上映される画面は次第に横長になっていきスケール感が増した作品が多くなっていったが、近年では、例えば、ガス・ヴァン・サント監督の『エレファント』や、ウェス・アンダーソン監督の『グランド・ブダペスト・ホテル』など、あえてこのスタンダードサイズに回帰している作品がある。背景の広がりが少なく、被写体が画面の中にぴったりと収まるスタンダード・サイズは、よりパーソナルな雰囲気が生まれやすい。私小説的でもあり、比較的視野狭窄のような効果も与えるこの方式では、本作における、ナチスのために働かなければならない苛酷な現実の環境と、サウル個人だけの世界がばっさりと切り離されたものになっている作品の印象を、さらに助長させているといえる。

 サウルはガス室で殺害された犠牲者たちの中に、自分の息子と思しき少年を見つけてしまう。彼は息子の命を救うことは叶わなかったが、他の犠牲者のように焼却炉で燃やされるのでなく、せめて息子をユダヤ教のしきたりによる埋葬方法で弔おうとする。だがナチスによって厳重に警備された収容所において、ゾンダーコマンドという立場でそのようなことを成し遂げるのは不可能に近い。それでもサウルは遺体を隠し、ユダヤ教の行事を取り仕切ることのできる「ラビ」を、囚人の中から探し出そうとする。

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