宮台真司の月刊映画時評 第4回(前編)
宮台真司の『恋人たち』評:〈世界〉を触知することで、主人公と観客が救われる傑作
<社会>の中に<世界>を見る
ありとあらゆる全体を<世界>と呼び、コミュニケーション可能なものの全体を<社会>と呼びます。最も古くは<世界>=<社会>でした。ところが定住以降は<世界>と<社会>が分化し、<社会>(コミュニケーション可能なもの)の外に<世界>(コミュニケーションが不可能なもの)が拡がると理解されるようになります。ヒトは<社会>にまみれることで<世界>がつかめなくなるので、<社会>を一旦キャンセルして試練にかけることで<世界>を回復させる営みが必要になります。それが【ケガレ(日常の頽落)⇒ハレ(非日常の混沌)⇒ケ(日常の回復)】の構造を持つ祝祭です。
その意味で、祝祭は、離陸面と着陸面の落差を伴うので通過儀礼と同じ形を持つと言えます。三幕構成のギリシャ悲劇も、祝祭ないし通過儀礼的構造を通じて、「自分がどんな<世界>をどう生きているのか」が分からなくなった状態から分かる状態にシフトさせます。ところでギリシャ悲劇を支える叙事詩的思考は、セム族の唯一絶対神信仰を意識して否定します。否定されるのは「<社会>とは所詮はちっぽけで、その外側に人知を越えた<世界>が拡がり、それを主催するのが創造主」という思考形式。これを否定する理由は、唯一神への拝跪を退けたいからです。
ここからが本題です。セム族の意味論とは違い、ギリシャ悲劇はーー遡ればギリシャ叙事詩はーー<社会>の外に<世界>があるのではなく、<社会>の中に<社会>を通じて<世界>を見ようとします。<社会>は所詮デタラメです。人は思い通りに生き死に出来ず、<社会>は人に挫折をもたらします。それで、人はマジガチで喜んだり悲しんだりしつつ前に進みます。しかし、偶さかのアンラッキーがあって人は悲劇に出遭うのではない。<世界>はそもそもデタラメだから、<社会>もデタラメなのであって、<社会>を秩序と見做すこと自体が浅はかな思い込みである⋯。
ソポクレスの『オイディプス王』でも何でもいいけど、ギリシャ悲劇はそうしたモチーフに彩られています。「秩序がまずあって、偶さかの異常事態として無秩序がある」のではない。むしろ逆に「無秩序の海に浮かぶ奇蹟のイカダのようにして、秩序がある」のだと。ちなみに、百年余り前にこうしたギリシャ的思考を再生したのが社会学者エミール・デュルケームで、それをゲオルク・ジンメルのモチーフを散りばめて自覚的に継承したのが社会学者ニクラス・ルーマンです。そして僕自身はルーマンの強い影響下で社会システム理論を展開しています。
「秩序自体が、ありそうもない奇蹟だ」という発想は、ギリシャ的=叙事詩的です。反対に、「神の怒りで、無秩序になった」とする発想は、セム族的=一神教的です。「日常それ自体が、ありそうもない奇蹟だ」「無秩序の海に浮かぶ奇蹟のイカダのように、秩序がある」と捉える小説や映画の系列は、ギリシャ悲劇の伝統に連なっています。それを踏まえれば、『恋人たち』は、『マグノリア』もそうだったように、<社会>の中に<世界>を見る、つまり<世界>の摂理が<社会>のデタラメを貫徹している、とするギリシャ悲劇的な系列上にあると言えるでしょう。
その意味で非常にトラディショナルだからこそ多くの人に感銘を与える作品になっています。この作品は、救いの映画だけど、「苦しんだ後にいいことがあった」という救いじゃない。それだと「アンラッキーに不幸があったけど、ラッキーにも救われた」という話になり下がります。<こんなはずじゃなかった感>が蔓延する昨今、そんな話の作りでは観客が納得しません。橋口監督自身、詐欺被害に遭うなど酷い経験をし、『ぐるりのこと。』から7年間で自身の社会観も全く変わったとおっしゃる。謂わば「社会はそもそもクソだ」と確定したという訳ですね。
だからこそ、「生きていればいいこともある」という描き方をせず、「クソな社会に塗れることの中にこそ救いがある」という作りになっています。先ほど述べた意味でトラディショナルであると同時に、少し前までなら辛うじて可能だった「生きていればいいこともある」「<社会>は棄てたものではない」という凡庸な作品群とは違ったアップ・トゥ・デート感があって納得します。この「納得」がキーワードです。そのことを理解するには、ヴァルター・ベンヤミンというドイツの哲学者・批評家の枠組を参照する必要があります。ごく簡単に紹介してみましょう。