宮台真司の月刊映画時評 第4回(前編)
宮台真司の『恋人たち』評:〈世界〉を触知することで、主人公と観客が救われる傑作
橋口作品に通底する「ナンパ師視点」
もう一人の主人公、日常に疲れた主婦・瞳子(成嶋瞳子)も印象的。僕は人妻ナンパをしていた時期がありますが、人妻ナンパの醍醐味を思い出させるキャラクターです。キレイな女性が自分のものになる、というのとは別種のエロさ。頽落した日常に塗れて疲弊しているのたけれど、少しだけそこに収まらない何かがある。そこに触れて救われるというか、ナンパした側に名状しがたい体験が生じるのです。3人の主人公を演じたのは素人同然の方たちでした。共演している光石研や安藤玉恵などプロの俳優を主人公に据えたら、この感じは出ませんでした。
『恋人たち』あるいは橋口監督の作品を評価する上で、もう一つのキーワードが、今申し上げた「ナンパ師視点」です。僕のナンパ関連本『愛のキャラバン』『希望の恋愛学』で話したように、ナンパ師は二つのパターンに大別できます。一つは、自信を得るなど自分を底上げしたいがためのナンパ。<自己>に注意が向いています。もう一つは、<世界>を触知するためのナンパ。<世界>に注意が向いています。僕は後者のナンパを推奨してきました。それを「<世界>をワンダーランド――脅きに満ちた世界──として体験するナンパ」と呼んできました。
二十年以上前ですが、実際そのようにして援交女子高生を発見しました。それでたくさん調べて朝日新聞に書いたら、取材が殺到したので女子高生ネットワークをつなげて、連日連夜知っている子たちがテレビ画面に出るようになって、ブームになって⋯⋯という。これも二十年以上前ですが、社会学会で地方に行くと、開催期間の二日目は近隣でナンパをしていました。学会で地方都市に泊まっただけなら、そこにあるのはただの風景。それが、ナンパで知り合った女性から地域の話を聞くと、生々しい“場所感”が現れて、感覚地理が一変してしまうのです。
「駅北は工業団地の主婦には、最近は不景気なのもあって駅南のテレクラやダイヤルQ2で援交している人がいる」とか「観光物産館周辺にいるのは然々の女子高生たちで、ショッピングモール周辺にいるのは然々の女子高生たち」とか「主婦たちの噂では、最近できたタワーマンションに住む主婦たちの間では⋯」といった話から、夫や親に関わる細々したエピソードまで、あれこれ話を聞くうちに、<世界>は確かにそうなっているのだ⋯と一瞬の星座が立ち現れます。『恋人たち』の美形でも美女でもない男女が織り成すエピソードが与える感覚も、それに近い。
この感覚が橋口監督らしい。それは橋口監督がナンパ師視点を採るからです。橋口監督はゲイであることを公表していますが、僕も1992年の丸一年間、新宿二丁目界隈でゲイの取材をしています。「どこそこ公園で、ズボンの後ろポケット付近に鍵を埀らすと⋯」とか「どこそこデパートの地下トイレで、洗面台の鏡越しに目を合わせると⋯」とか「どこそこサウナで、ガウンのオビ色を赤にすると年少希望で青にすると年長希望で⋯」とか詳しく聞き出しだ後、街を歩くと、ただの風景だったものが、“場所感”を伴った別の実体として浮かび上がってきます。
若い人と接して来て僕が嫌悪するのは、「街を歩くとドブネズミ色の服を着たサラリーマンの群れが⋯」といった歌詞や文章を書く人たちです。街を行き交うただの影絵のように見える存在が、しかし一人一人どんな毎日を送り、どんな人たちと会い、どんな家族の中で何を感じて来たのかを知れば、モノトーンがカラーになったかのように一変します。かつて十年以上に渡ってナンパ師として過ごして、性愛体験としては実りある経験が少なかった中で、しかし数少ない良いことと言えば、モノトーンをカラーにすることができるようになったことです。
『恋人たち』は傑出した映画です。まとめると、第一に、<社会>を生きていればいいことがあるからではなく、<社会>を通して<世界>が立ち現れてきたことで、主人公と観客が救われること。第二に、「街を歩くとドブネズミ色の服を着たサラリーマンの群れが⋯」というヘタレ視点をナンパ師視点に取り替えれば、モノトーンの影絵がカラーになること。カラーといってもハッピーという意味じゃない。むしろ逆です。様々な生々しいデタラメを触知できるようになるのです。そうした触知がなければ、<社会>を通して<世界>が立ち現れることはありません。
もう一つ加えると第三に、先ほど申し上げたことですが、『マグノリア』とは違って『恋人たち』では、観客たちが、主人公たちとシンクロすることによって――主人公が救われることで――救われること。バッドエンド感というよりハッピーエンド感を抱いて家路につけます。但し主人公にいいことがあったからじゃない。主人公の日常に対する構えが少し変わったからです。だからこのシンクロによって観客の日常に対する構えも少し変わるかもしれない。とすれば『恋人たち』は、離陸面とは異なる着陸面に混沌を通じて着地させる、まさにアートです。
ちなみに、ここで僕が用いているのは初期ロマン派におけるアートの定義です。この定義には、<社会>に塗れた我々に、<世界>は確かにこうなっているという告げ知らせをするもの――<世界>からの訪れ――がアートだという面と、この告げ知らせを聞いた以上、もはやかつてと同じように<社会>を生きられなくなるという面と、二つが含まれます。対照的なのがリクリエーション=娯楽です。ストレスを解消して元気な状態に戻る。いわば労働力の再生産としてのリ・クリエーション。これは単に<社会>に戻るためのものだから、アートではあり得ません。
(取材=神谷弘一)
■宮台真司
社会学者。首都大学東京教授。近著に『14歳からの社会学』(世界文化社)、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎)など。Twitter
■公開情報
『恋人たち』
テアトル新宿ほかにて上映中
原作・監督・脚本:橋口亮輔
出演:篠原篤、成嶋瞳子、池田良、安藤玉恵、黒田大輔、山中崇、内田慈、山中聡、リリー・フランキー、木野花、光石研
配給:松竹ブロードキャスティング、アーク・フィルムズ
製作:松竹ブロードキャスティング
(c)松竹ブロードキャスティング/アーク・フィルムズ
公式サイト:http://koibitotachi.com/