まさに「ピープル with J.J.エイブラムス」 これぞ、みんなが観たかった『スター・ウォーズ』だ!

『スター・ウォーズ』緊急ロングレビュー

 さて、「『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』緊急ロングレビュー」と威勢よく銘打ってはみたものの、初日初回上映を観た直後(原稿執筆時)のこのタイミングで、一体何をどこまで書くことが許されるのか? 基本的に自分は、受け手が能動的にアクセスしないと見られない場所における一般公開後のネタバレに関しては、送り手は必要以上に神経質になる必要はない、「みんな顔の見えない受け手を怖がりすぎなんじゃないか」というスタンスである。しかし、本作には想像通り、いや、想像以上にいくつかの決定的な大ネタがあって、『スター・ウォーズ』大ファンの一人として、公開初日にさすがにそこまで踏み込むのは躊躇せざるを得ない。

 で、ここからはネタバレ云々の話ではなく、その「みんな顔の見えない受け手を怖がりすぎ」ということこそが、今回の『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』を観終えてから数時間経って、最初の興奮が過ぎ去った今、自分が考えていることだ。

 『スター・ウォーズ』シリーズが映画史において最も特殊な点は、ファンの存在が完全に作り手の存在を超えてしまったところにある。『ピープルvsジョージ・ルーカス』なんて映画まで作られたことからもわかるように、『スター・ウォーズ』ファンはそのシリーズの創造主、いわば神であるところのジョージ・ルーカスと長年対立してきた。その第一段階はビデオ、DVDとソフトでリリースされる度に修正が加えられてきたオリジナル・シリーズの改変問題であり(ファンにとってはルーカスではなく、オリジナル・シリーズのオリジナル・バージョンこそが「神」だった)、決定的となったのはエピソード1〜3、中でもエピソード1に対する大きな失望だ。最近よく『スター・ウォーズ』好きと話になるのは「エピソード1の公開直後には、みんなそこまでボロクソ言ってなかったよね」ってこと。時間が経てば経つほど、「エピソード1のことならいくらでもボロクソ言っていい」ってことになってきた。ジャー・ジャー・ビンクスを擁護するつもりはまったくないけれど、シリーズ全体を通して他にもツッコミを入れるべき点はたくさんあるのに、いくらなんでも都合のいいスケープゴートにされすぎだと思う。

 今回、公開直前の本国アメリカにおけるプレミア上映まで超厳格な秘密のベールに包まれてきた『フォースの覚醒』の制作中にも、「ジャー・ジャー・ビンクスは出ないよ」ってことだけはかなり早い段階からJ.J.エイブラムスを筆頭とする主要スタッフが冗談交じりにメディアで口にしていた。で、ルーカス=神を引きずり下ろすことに成功した(実際にはルーカスが権利をディズニーに譲渡したわけだが、構図としては「引きずり下ろされた」と言ってもいい)ファンたちは、その発言をもてはやしていた。まぁ、時代的にエピソード4、5、6が間に入っているわけだから、ジャー・ジャーが出てくるわけないんだけどね。

 そんなスタッフとファンの予定調和なやり取りや、今年春のアナハイムでの熱狂的なファン・ミーティングに象徴されるように、J.J.エイブラムスやプロデューサーのキャスリーン・ケネディやキャストたちは、今回ずっと「ファンの側」に立っていることをアピールしてきた。「僕たちは『スター・ウォーズ』で育ってきた世代で、僕らもファンの一部なんだ」と。だからこそ、三顧の礼でハリソン・フォード、キャリー・フィッシャー、マーク・ハミルらオリジナル・キャストの再会まで実現させてみせたのだ。もちろん、自分も大喜びしたけれど。

 はたして、『フォースの覚醒』は、ストーリー的にも、個々のキャラクター的にも、オリジナルシリーズ以来久々に復活した「実際に手にしたくなる」ガジェット感的にも、そして予告されていた通りフィルム撮影&ロケセット多用というオールドスクールな技術的にも、そんなファン心をくすぐる要素に溢れた作品として仕上がっていた。予告のクライマックスを飾っていたハン・ソロ&チューバッカの登場シーンまでの冒頭40分間(その時に我に返って、初めて時間の経過を意識した)、そのあまりにも『スター・ウォーズ』オリジナル・シリーズ的な作品の質感とテイストと展開に恍惚として、完全に時間感覚と現実感覚を失っている自分がいた。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「作品評」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる