韓国ノワールはなぜ匂い立つほどリアルなのか? 菊地成孔が『無頼漢 渇いた罪』を解説

菊地成孔『無頼漢 渇いた罪』を解説

韓国ノワール(ノワールのリアリティが生きている国)

 とさて、今回紹介する『無頼漢 渇いた罪』もそうですが、韓国映画も、他国と違わず、いわゆるヤクザ映画韓国ノワールといったジャンルは非常に盛んで、例えば数年前にチェ・ミンシクとハ・ジョンウが共演した『悪いやつら』(2012)という映画がありました。

 これは、盧泰愚(ノ・テウ)政権が、88年のソウルオリンピックに際して急進的に行ったソウル市の浄化/近代化(現在の「韓流」の下地はほとんどこの時に準備されています)の、言わば総仕上げとして、90年代に入り、ソウル市内における、暴力団殲滅宣言と、それに対する暴力団の抵抗を描いた、戦争映画とも言える半実録もので、韓国版『仁義なき戦い』とも言え、韓国ではかなりヒットしました。

 また、これはつい最近まで公開されていた作品ですが、イ・ソンギュンとチョ・ジヌンが出演した『最後まで行く(クッカジカンダ)』という映画があり、刑事とヤクザが一対一で戦う、いわゆるタイマン映画ですが、名だたる韓国内の賞レースで受賞しています。

 前回書いた通り、日本のヤクザ映画だと、でかい声と怖い顔で、笑ってしまうほど威嚇した後に、ノータイムでドスかピストルが出てきて、そんなもんが出てきてしまえばもうその段階で「死ぬまでの時間を引き延ばす」事以外できなくなります。

 これまた前回書いた、「暴力というリアル」の無化ですよね。古いアメリカの西部劇もそうで、撃ち合いになったら、時間つぶしがスタートするので、ダレるかダレないかは作品によって違うとしても、リアルの牽引力が霧散してしまいます。

 その点、韓流ノワールは、決定的な殺傷武器が出てくるまでが長く、前述の「最後まで行く」のタイマンシーンで使用されるのは何とダイアル式の黒電話(それを引き抜いて、マウントをとって何度も何度も顔を打ち付けると、みるみる腫れ上がって行く)や、どの会社にもある、金属製の書類ケースや、トイレの便器(「便器に顔を突っ込む」などという流暢な使い方ではなく、便器を固定した鈍器と捕らえ、顔やら腰やらに打ち付けるのです)だったりして、リアルの牽引力がハンパないです。

 後述しますが、本作は前述の2作と違い、カンヌ狙いの芸術志向なんですが、それでも、「そうとう強い悪役」を、マンションの一室に追い込んだ警察のうち、主人公である若くて良い男は最新式の、特殊セラミックみたいなので出来た、見るからに当たったら痛そうな細い警棒を、シューとかいって延ばしますし、先輩である壮年でデブの刑事は、何と金属バットを手にして突入に臨みます。その時の台詞が「相当手強いぞ、気を抜くな」というんですが、そのトーンに全く緊張感がなく、「今日は暑いからコート要らないよ」ぐらいの感じで、リアリティに震え上がります(北野バイオレンス映画みたいに「敢えて逆に行く」みたいな感覚とは全く違います)。

 とはいえ、この『無頼漢』のリアルは、こうした暴力シーンだけではありません。もう、映画が始まって、画面が立ち上がった瞬間の、半スラム的な公団の屋上に猫が一匹いて、それが主人公と入れ替わりに画面から見切れるんですが、まったくわざとらしくなく、緩く斜めに設置されたカメラも、おそらくフィルター無しの、明け方の濃密なブルーの画面も、震え上がる程の美しさで「こらカンヌが喜ぶわ」としかいいようがありません。

 韓国はスゴく変わった国なんです。ソウルでは、明洞というところが日本でいう原宿なんですが、明洞からちょっと車を走らせると、あっという間にスラムがあって、米軍の基地もある。地下鉄には明洞ですら北からの毒ガス攻撃に備えた防毒マスクが備えてあったりしますし。韓国には、日本がクールジャパン化される以前の前近代的な昭和の感じがまだ残ってるんですね。文化だけだと日本やアメリカと肩を並べるくらいなのに、経済的には破綻している。

 IMFの監査が2回もあった国なんて他にはないわけです。「IFMの監査が入ると外資が逃げる。その隙に南北の紛争が起こりそうだというデマを流して、死の商人たち=大抵アメリカが韓国の経済ごと乗っ取ろうとする」という設定のドラマや映画もあるぐらいです。この設定はまったくアクロバティックではありません。

 つまり、韓国映画の娯楽としての実質の強さが年々ものすごいことになっていることと、そしてインド映画の娯楽としての実質の強さが年々下がっているのは、貧困の有無だと思います。インドも地方に行ったら、気を失うぐらい酷い貧困がある訳ですが、ボンベイとソウルでは経済的な発展に於いて桁が違います。ヤクザ映画と一口に言っても、一作一作にコンセプトの違いがあって、豊かである。というのは、ゲトーもスラムも殆どない日本では臨むべきも無い豊かさです。

 ヤクザ映画に金は付きものですが、韓国にはどうしても貧困の問題があるから、描かれ方が懇切丁寧でリアルなんです。日本のヤクザ映画だと、あっという間にパーティーグッズみたいな札束が出てきて、「はいこれは歌舞伎の世界ですよ」という風にリアルが吹っ飛んでしまう。

 本作では、主人公の刑事が、もうひとりの主人公(実際は主人公は女性で、三角関係になるんだけど)である犯人を逮捕するに際し、みせしめのために、奴を半身不随にしろと、内部から命令されます。「足を撃つだけだ。殺さなくて良い。あいつを一生歩けなくすれば良いんだ。わかったな」。

 それだけでもリアルだなあと思うんですが、そのミッションの対価が5万円なんです(笑)。

 「韓国映画の犯罪映画は、金のやり取りがきめ細かい」というのは憶えておいて下さい。パーティーグッズの札束は出て来ません。

 それでいて画面はもう、東欧かユーラシアの平原かという位の美しさで、実際に行ったら悪臭で吐き気がするのは解り切っているスラムのリアルと、「画面が美しい=空気が澄んでいる」感を、無理なく見事に両立させた斬新な感覚には脱帽です。高い場所に動けば動く程、空気がきれいで、悪臭と毒性が渦巻いているのは地表近くなのだ。と、まるでSF映画みたいですが。

 ストーリーも、さっき挙げた『悪いやつら』や『最後まで行く』に比べると、ぜんぜん小さい話で、ヤクザの話というよりも、どちらかというと愛の話で、まあ女性映画なんですよ。

 前回書いたように、今の日本映画の構造的上限だと、任侠物の主人公が女性だった場合、女性の男性化、つまり「鬼流院設定」を組み込まずにはいられない訳ですが(これの、見事なポストモダンが、早くも80年代に『セーラー服と機関銃』で達成されていたのは、ジャパンクールの先駆としても映画史に残る事は指摘するまでもないでしょう)、昔の日本映画には、「女の生き様映画」が「任侠映画」と合成された作品はいっぱいあったんですが。今「女の生き様映画」ちゅうのは(以下略)。

 韓国は何せ兵役と儒教があるガチのマッチョ社会だから、まだまだ「女の生き様」+「任侠」が成り立つんですが、「あーんな古くさいもの、韓国人しか喜ばないよ」と仰るあなたは、ナショナリストの愚民とは決して言いませんが、先入観99%、イマジネーション1%で生きている、つまり人生を大変もったいなく過ごされている方なので、悪い事は言いませんので、是非本作を観て下さい。

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