全90章、625ページにわたる毒電波! チャーリー・カウフマンの奇書『アントカインド』を読む【後編】
『脳内ニューヨーク』(2008年)が興行的失敗に終わってから、チャーリー・カウフマンのキャリアは行き止まりに突き当たった。近年の洋画事情を鑑みると理解いただけるかと思うが、ゼロ年代後半より中規模の映画製作は縮小をはじめ、ビッグバジェット映画と低予算映画の二極化が顕著となる(低予算~中規模映画に再び脚光が当たるのはA24といった「個性派スタジオ」の登場を待たねばならなかった)。かくして「商業的な成功を生み出せない」と烙印を押されたカウフマンは活躍の場を失い、皮肉なことに自身がこれまで描いてきたような「ドン詰まりの男」になってしまったのだ。
それまで自身がボンヤリと抱いてきた不安を作品に転写してきたカウフマンだが、それが実生活に侵食してきた。そこで2012年、彼はエージェントと出版契約を結ぶ。それから8年かけて上梓された小説が『アントカインド』である。前編では『アントカインド』の装丁を眺めつつ、1万5400円という価格におののき、そのページをめくれずにいたのだが、今回はようやくこの書籍の内容に踏み込んで語ってゆきたい。
※天才脚本家チャーリー・カウフマンが書いた奇書『アントカインド』(定価1万5400円!)を読む【前編】はこちら
本作の主人公はキャリアの低迷に悩む映画評論家、B・ローゼンバーガー・ローゼンバーグ。「自身の映画評など誰が読むというのか」と思い悩みながらも、高すぎるプライドと「己は最高の人間である」というズレまくりの自己認識をもって振る舞う、平たく言えば「すごくイヤなヤツ」だ。小説は基本的にBの自分語りに沿って進行する。自分がいかに高尚な人間なのか、いかに博覧強記であり、いかに差別的でなく、いかにフェミニストであるか。滾々と誰にでもなく独白を続けるその脳内はなんとも病的であり、惨めで哀れだ。本書の読者はジョン・マルコヴィッチならぬ映画評論家を自称する最低野郎の目線に入り込み、彼から紡がれる世界を体験させられる。なんという苦痛! しかし一方で、それが愉快でもある。皆さんもSNSでちょっとヤバそうなアカウントを見つけて、その投稿をついつい追ってしまったことはないだろうか。あるよね。あるに違いないし、ないとは言わせない。その感覚なのだ。
さて、本書のあらすじをザックリと示すと以下のようになる。
アメリカ映画におけるトランスジェンダーの歴史を検討する書籍の準備を行っているBは『A Florida Enchantment』(1914年:アメリカ映画で初めて両性愛者の登場人物が登場した作品として知られる)について調査すべくフロリダへ行き、そこで119歳のアフリカ系男性インゴと出会う。なんとインゴは生涯かけて上映時間3か月にわたるストップモーションアニメ映画を作ってきたというのだ。映画に映らない存在「不可視者」をも意識したインゴの映画を観たBは「映画史を変える作品」と確信、感動にうち震えるが上映中にインゴは死んでしまう。インゴは映画を外に出すことを望んでいなかったが、Bは名声ほしさにフィルムを持ち出し、ニューヨークまで運搬しようと試みる。しかし可燃性のフィルムは車の中で焼失、Bも大火傷を負い昏睡状態に。
昏睡状態から目覚めたBは記憶を失っていた。しかし何か大発見をしたような気がする、すごい映画を観た気が……。ついにインゴの映画の存在を思い出したBは周囲に喧伝するが、現物が無いので誰からも信じてもらえない。そこでBが思いついたのは、インゴの映画を小説という形で「修復」すること。しかし記憶を失っているのでインゴの映画を思い出せない! セラピストを渡り歩いたBはしまいに怪しい催眠術師バラッシーニのもとに行きつく。催眠術で過去の記憶をさかのぼり、パズルのピースをはめるようにBはインゴの映画を修復しはじめる。だがそれはインゴの映画なのか、それともBの妄想の産物なのか……。
映画は他愛もない場面から始まり、現実で起きた出来事を絡めながら奇妙な展開を見せてゆく。アポロ11号が月面着陸した時に船内に現れた双子の赤ん坊、成功を追い求めるお笑いコンビ、未来を予測しようと奮闘する気象学者。しかしこれが作られた時代にはまだ起きていなかった出来事も劇中で描かれるのでBは困惑する。インゴは未来を視る超能力を持っていたのだろうか。Bの疑問に答えるかのように、映画に登場する気象学者は未来予測に成功する。彼が観測したものは暗黒の未来世界――人類は洞窟で暮らし、そこではドナルド・トランク大統領(トランプではない……念のため)を模した数千体の殺人ロボット、ハンバーガーチェーン「スラミーズ」率いる独裁組織、抵抗勢力「堀り師(ディガー)」の一団が三すくみの戦いを繰り広げている――だった。
ある晩、Bは夢を見る。そこで出会った女性はアビサと名乗り、Bは彼女に強く惹かれてゆく。アビサは遠い未来から来たと言い、自身のブレイニオ「無限後退の並木道」をBに小説化してほしいと頼む。ブレイニオとは脳で直接楽しむ未来の映画のようだ。アビサのブレイニオは未来の検閲に引っかかっているため、自身のオリジナル作品を発表できない。なので過去に書かれた小説をブレイニオ化したというテイなら自身のオリジナル作品を世に放てるというわけだ。「無限後退の並木道」はドナルド・トランク大統領が自分そっくりのロボットを作り出し、彼を深く愛する物語。この作品が高く評されるのは必定とアビサは語るが、その内容を激しく嫌悪したBは小説化を断ってしまう。
チャンスを逃したBの没落は止まらない。一目ぼれしたアジア系女性を執拗にストーキングし、道を歩けばマンホールに落ち、自分を嫌悪している娘は映画監督として大出世し、彼女の悪口を映画批評サイトに書き込むも鼻であしらわれてしまう。ついには家賃を払えなくなったBは催眠術師の家に身を寄せ、タンスの引き出しで眠る日々。最悪な人生すぎる。いったい誰が私をこんな目に遭わせているというのだ。……そこでBは気づく。チャーリー・カウフマンだ! この物語の創造主が自分を徹底的に苛め抜いているのだと。
真実に気づいたBはカウフマンから逃れるべく『アントカインド』の物語世界から誰にも見られない「不可視者の世界」へと脱出する。Bがいなくなったことに気づいたカウフマンは「第2のB」を創造、物語世界へと放り込んだ。こうして複数のBが存在するマルチバースが生まれた。もうひとりの自分がいることを知ったBは不可視者の世界から脱出し、もといた世界へと戻る。するとそこには2人目の自分のみならず、3人目の自分までがいたのだった。
混乱の中、Bは併存する2人目、3人目の自分を殺害。自分と違い、他のBは成功者としての人生を歩んでいたようだ。違和感を抱きながらも他人の人生を生きるB。しかし世界は突如として業火に包まれた。そしてインゴの映画で描かれた終末世界が訪れる。――それから百万年後、トランク・ロボもスラミーズも堀り師も全滅し、地球は知能を持ったアリたちが支配していた。その中で最も高度な知能を持ったアリ「カルシウム」はBの存在を知り、彼に会いたいと願い、時間旅行の方法を探るのであった……。
以上が『アントカインド』のあらすじとなる。全90章、625ページにわたる毒電波。矮小な個人の脳内を追っていたら、しまいにはヒエロニムス・ボス的な混沌とした広大なる妄想世界のパノラマへと叩き込まれてしまう超越体験! 「筆舌に尽くしがたい」という一言だけを置いて、本書のレビューを逃げるように終えることもできるのだが、作品世界を紐解くべく少しあがいてみたい。
カウフマンの作品が独我論に根差した実験であることは前編で述べた通りだ。そのうえで『アントカインド』を眺めてみると、やはりBの一人称視点より物語が紡がれることから、そのアプローチはこれまでの映画作品と変わらず踏襲されていると言えよう。しかし今作における、これまでの作品との差異として浮かび上がるものは「目的の欠如」である。
通常、映画には決まった尺が存在する。その中で物語を展開させるため、登場人物は定められた目的に沿って動く。『脳内ニューヨーク』だと「理想のニューヨークを作り、そこで舞台を上演すること」だ。目的を成せばハッピーエンドが、成しえないとペーソスに満ちた結末が待っている。観客が心を揺さぶられるものは、目的に対して登場自分がそれを成そうと汗を流し、もがき、歯を食いしばる道程にあり、そして「成した/成せなかった」結末が作品のトーンを左右すると言い換えることもできるだろう。しかし『アントカインド』ではそれが意図的に排除されている。
Bの行動を決定づける目的は経時的に変化してゆく。冒頭では①トランスジェンダー映画に関する書籍を書くこと。インゴと出会ってからは②インゴの映画を世間に広めて名声を得ること。インゴの映画の焼失後は③インゴの映画を修復すること。さらにそこに④アビサのブレイニオを小説化することが加わる。物語を牽引するものは③だが、しかしいずれもが成されることはない。「あれ? なんかうまくいかないな」といった調子で、それらの目的はなんとなーく置き去りになってゆく。まあ人生そんなもんよ、とも思うが、これではドラマは生まれず、感情を揺さぶられることはない。
これまでのカウフマンの作品でも摩訶不思議な世界が展開されていたが、いずれも目的とその結果が明示されていたため、よく分からないなりにドラマは生み出されていた。本書を書くにあたってカウフマンは「書くにつれて物語が変わっていった」と語っている。つまり本書は即興演奏のようなもので、尺のある映画とは異なる意識で紡がれたものと見るのが正しいだろう。思えばカウフマンのキャリアはスケッチコメディ(状況の妙味を描いた短い寸劇)から始まっているので、その感覚の横溢を見て取れる。その点において本作はカウフマンの原点回帰と言えよう。
二転三転する目的の変節は一貫した物語の筋道を打ち砕き、断続的なものとする。このアプローチはまさしくポストモダン的であり、本書をポストモダン文学の大家トマス・ピンチョンの名を引き合いに出して語る声の多さにも頷ける。そしてピンチョンの作品と同様に『アントカインド』における目的と行動、その挫折は政治的なニュアンスも汲み取れるものだ。ドナルド・トランプを揶揄した表現は作品の随所で顔を出すが、これは氏の発言を転写したジョークにすぎず、そこからアメリカの辿る道を予見しているとまでは言えないもの。一種の「お楽しみ装置」的なもので、ちょっとしたくすぐりにすぎない。より政治的である事柄は、Bの目的の変節が内因的というよりも外因的であることだ。Bが何をしてもうまくいかないのは、本人が途中で気づいたように作者カウフマンの意図が介在しているからなのである。
冒頭でBが虫を見て「あれはドローンかもしれない」と考えるくだりがある。これは「鳥は存在しない」陰謀論を基にしたもの。鳥というものが本当は存在せず、大いなる組織が我々を見張るためのドローン装置である――ここで示されるものは、Bが陰謀論的思考に憑りつかれた人物ということだ。すなわちBがカウフマンに自分の行動を操られていると気づく場面は、陰謀論が証明され「陰謀」へと変わる瞬間と言えよう。
陰謀論は笑い事ではなく、その史観に基づいた凶悪事件がアメリカでは頻発している。国家に対するパラノイアに囚われた人間の危うさを描き続けてきた作家がピンチョンであり、その流れを『アントカインド』も汲んでいると言えよう。Bが陰謀論的思考を持っている描写が物語世界に対するカウフマンの介入を単なるメタ的な笑いではなく、陰謀論が跋扈するアメリカの姿へと接続可能にする重要な箇所なのだ。陰謀論とは「ある個人による世界の見え方」に依拠する考え方である。空飛ぶ鳥が美しいと思う人間と、それがドローンであると考える人間では、世界の認識が全く異なるのはお分かりの通り。これはまさしく個人と世界の在り方について踏み込んできたカウフマン作品と質を同じくするものだ。『アントカインド』は目的の欠如をもって、これまでのカウフマン作品からドラマ性を切り離し、そこに政治的側面を代入した作品と見なすことができる。
一方で、カウフマンが独我論の「外側」へと視線を向けたことも特筆すべき点だ。本書では「不可視者」という概念が頻繁に登場する。これはインゴが語る「映画に映らないが、そこに存在する人々」を指す。これまで個人の視点より形成される世界を描くことに腐心してきたカウフマンだが、その外に存在するものを自作に導入したのだ。作中では不可視者として映画に登場しない俳優が挙げられるが、より俯瞰視すると、その代表格となるべき存在は映画を観る人々なのである。
Bの職業は映画評論家だ。彼は7回映画を観ることで、ようやくその映画を語ることができると力説する、まさに「観る者」の代表格にして究極の不可視者。そんなBがかつて観た傑作を脳内から修復しようとする。しかしうまくいかない。当然だ、記憶は日々更新されるし、意識も常に変容し続ける。個人によって世界の認識が異なるように、映画もまた不可視者によって観測された瞬間に個々人の中でその形を変えてゆくのだ。
ここに、これまでカウフマンが描いてきた「世界」と「映画」が等号関係で結ばれる。カウフマンは映画評論家を「僕にとって密接な関係を持たざるを得ない職業だ」と冗談めかして語るが、批評家によって語られる自作と、自身の中にあるその姿の乖離に眉をひそめたことは一度や二度ではないだろう。映画を思い出そうともがき苦しむ人間の職業が映画評論家であることは悪辣なジョークであるが、しかし『アントカインド』で何度も語り直される映画の姿は同一のものとは思えない姿形を見せており、ここに「映画」というものの不確かさが描かれている。つまり世界と同様に映画もそれを観る者によって決定づけられるのである、というカウフマンの主張がここから読み取れよう。自身が描き続けてきたものこそが本質的に映画そのものなのだ――まさしく、本書は映画制作者によるラディカルな映画論なのである。
と、あくまで「これまでカウフマンがどんな映画作りをしてきたか」という起点より『アントカインド』にソフトタッチを試みたが、当たり前に本書はひと口で語りつくせるものではない。Bの脳内から垂れ流される大量の固有名詞には正しいものから間違っているものまで混在している。そのひとつひとつをファクトチェックするだけでも膨大な時間を要するだろう。さらに時間軸を横断して描かれるインゴの映画と、劇中の過去、現在、未来の関わりを照らし合わせてゆくと、一致と齟齬が連続する仕掛けになっている。本国で『アントカインド』が発売されてから5年が経つが、読者の中にはひたすらこれを解読しようと試みている者もいるようだ(その結果「さっぱり分からん!」と音を上げていて笑った)。
さて、前編の頭まで立ち返ろう。僕はこの本が1万5400円ということに大変驚いた。では、はたしてそれは内容と見合う価格なのか。それだけを言い残して退散することにしようと思う。ハッキリ言って、安いです。この圧倒的な情報量をして、物語を楽しむもよし、解読のために時間をかけるもよし、歪んだ映画論としてななめ読みするもよし、自身の知らなかった映画についての参考資料とするもよし……あまりにも多くの楽しみ方ができるのだから。嘘偽りなく「一生かけて味わい尽くせる一冊」と断言できる。コスパタイパ時代の皆様に向けてこう言い直してみよう。仮に超短期間で見積もって、本書を1年かけて読みつくすとする。そうすると1万5400円÷365日=42円/日。1日あたり「ブラックサンダー」ひとつの価格でこの大著が手に入ってしまう……なんとお買い得! さあこれで悩める皆様の後押しとなったでしょう。今すぐスマホのブラウザを閉じて、書店へ走れ!
■書誌情報
『アントカインド』
著者:チャーリー・カウフマン
翻訳:木原善彦
装丁:川名潤
価格:15,400円(税込)
発売日:2025年8月27日
出版社:河出書房新社