小説編集者の仕事とはなにか? 京極夏彦や森博嗣のデビューを世に問うた編集者・唐木厚インタビュー

SNSネイティブの世代は未来の書き言葉を考えていける立場

――『小説編集者の仕事とはなにか?』では小説における視点と語り手の重要性が説かれますが、その観点から評価する作家は誰ですか。

唐木:語り手をすごく意識して作っていらっしゃると思うのは、宮部みゆきさんです。普通は小説の「聞き手」は読者になるはずですが、「三島屋変調百物語」シリーズでは、聞き手が作中に登場し、語り手はその聞き手にむかって話すところから物語が始まる。そこから、語り手が作者に移動し、視点人物を通した物語が展開する構成をとっている。語り手と聞き手の存在に意識的で、小説の語りの技術にシリーズを読むたびに驚かされます。あと、作品ごとに緻密で完璧に視点人物を造型しているのは、桐野夏生さん。まあ、このお二人がすごいのは、僕なんかがわざわざいわなくても、みんなわかっていることですよね。

ーー最近のミステリについてはどのように感じていますか。

唐木:10年くらい前から、「謎解きエンタテイメント」が人気となって、それがミステリ小説にも影響を与えてきているように感じています。リアル脱出ゲームやマーダーミステリーのような、参加者がプレイヤーとして謎を解くタイプ、人狼ゲームみたいな対話型のゲームが流行って、ジャンルとして成立してきた。昔はミステリといったら、まず小説、あとはコミック、一部ドラマという印象で、小説がメインストリームだった。

  ただ10年くらい前から、書き手自身がそう意識しているかどうかはわかりませんが、リアル脱出ゲームの面白さを取り込んだ小説が出てきた。『屍人荘の殺人』(今村昌弘)とかです。つまりなんらかの閉鎖状況に閉じこめられた主人公たちが脱出を図りつつ、そこで起きた殺人の犯人当てをするみたいなスタイルです。

――同じ閉鎖状況であっても、本格ミステリにおける古典的なクローズド・サークルものとは、ちょっと違う。

唐木:古典的なクローズド・サークルは、基本的に謎解きをするための舞台設定だし、脱出方法については特に考えていない。でも、最近の作品はそこから逃げなければいけない状況が設定されているのが特徴だと感じます。

――本では、唐木さんがミステリについて「不調和の解消」としたのが、絶妙な表現だと思いました。

唐木:有難うございます。謎というよりは、もうちょっとモヤモヤしたものも対象になる気がするんです。

――最近、面白かったミステリ作品はなんですか。

南海遊『永劫館超連続殺人事件 魔女はXと死ぬことにした』(星海社FICTIONS)

唐木:南海遊『永劫館超連続殺人事件 魔女はXと死ぬことにした』(星海社FICTIONS)は、よくできた特殊設定ミステリです。伏線の回収も見事だし、設定の活かし方も、うまいなあと思いました。

――『小説編集者の仕事とはなにか?』では基本的に文三時代に担当したエンタメ小説について語られていますが、唐木さんは2000年に文三部長となった後、2005~2007年に純文学をあつかう「群像」の編集長も務められました。エンタメ小説と純文学の違いはどのようにとらえていますか。

唐木:「あなたにとって純文学とはなんですか」と聞けば、千差万別な回答が返ってくるでしょう。もし僕が「今の純文学ってどんな小説を指すんですか」と聞かれたら、大きく分けて2つの方向性があると答えます。1つは、映画に喩えるとドキュメンタリー映画に相当するもの。1つの状況なり、心理なり、人間そのものを描いていく。物語性をあえて作品に盛りこまない、ルポルタージュに近いタイプです。

  もちろん映画とは違うので、人間の思考の道筋を描くのが中心となります。もう1つは思考実験や文体実験を積極的に行う小説。本格ミステリでも思考実験や文体実験は行えるわけですが、ミステリの場合、最終的に謎の解決がないといけない、物語の起承転結の結がなければいけない制約がどうしてもあって、それがないと評価しにくくなってしまう。でも、純文学は制約がないし、実験をメインに打ち出せます。

 また、純文学は、現在も雑誌が大事な役割を果たしている。情報量が増えすぎた結果、アイドル雑誌などは今でも刊行されているものはあるにせよ、成立しにくくなっている。雑誌が、かつてのように特定ジャンルの「教養の輪郭」を示す役割を果たせなくなっています。でも純文学雑誌は、雑誌に載っているものを我々は純文学と考えているんですと示す役割を未だに果たしている。その重要性、意義は失われていないと思います。

――唐木編集長時代の「群像」には、メフィスト賞的な青春ミステリの文脈で埴谷雄高『死霊』を読み直した渡邉大輔氏の評論や、ミステリ作家の法月綸太郎氏による『死霊』論なども掲載されていました。

唐木:クロスオーバーのようなことをすれば、なんらかの新しい動きが生まれるのではないかと考えていました。純文学かエンタメかを問わない作家や、読者の関心の持ち方というものがあると思ったんです。そういうチャンスがあるなら、自分なりにべつの枠組みを作ってみたかった。

――書評や文芸批評をどのようにとらえていますか。

唐木:個人的な意見ですけど、編集者ってあまり体系的にものを考えないんです。作家もそうだと思います。それに対し評論家は、体系的にジャンル全体のマッピングを考えているはずで、そこが大きな違いです。ある作品を読んだら、次に読むのはこの作品がよいと紹介する仕事は、もちろん編集者もしないわけではないですけど、やはり評論家の方の役割でしょう。

――唐木さんは、その後に電子書籍や投稿サイトの事業にもかかわった経験も踏まえ、新聞・出版社を「書き言葉産業」と呼んでいるのが興味深かったです。SNS、メール、チャットなど、現在のコミュニケーションの多くは音声より書き言葉で行われている。そうした書き言葉の変化への対応が、今の編集者に求められることが、本では述べられています。唐木さんが過去に書き言葉の変化で新しいと感じ、印象的だった作品はなんですか。

唐木:記憶にある限りですが、最初に驚いたのは庄司薫さんの『赤頭巾ちゃん気をつけて』(1969年)です。同作は、栗本薫さん、橋本治さんなど、1970年代後半に登場した多くの口語的文体の書き手に影響を与えました。そうした作品を読んで育った僕らの世代は、書き言葉について前の世代に対するアドバンテージを持っていたかもしれません。

 一方、SNSネイティブの世代は、現在の書き言葉について僕ら世代よりセンシティブだろうし、未来の書き言葉を考えていける立場にある。過去に比べ若い方々は書き言葉の比率が飛躍的に増えて、従来の書き言葉では足りない部分を考えつつ使っているはずです。若い編集者には、圧倒的なアドバンテージがあります。それをぜひ活かしてほしいです。

――そして、本のカバー記載のプロフィールによると現在の唐木さんは、「星海社FICTIONSの軍師」となっていますが、どういう立場なんですか。

唐木:「顧問」とか「相談役」などの肩書だと会社に所属して報酬が支払われる感じじゃないですか。そうじゃなくて、これは無報酬で話し相手をするボランティア活動で、落語に出てくる「横丁の隠居」みたいな役割なんですよ。星海社の太田克史社長(かつて講談社文三で唐木氏の後輩編集者だった)からいくつか提案された肩書のなかで、普通の企業には絶対に存在しそうもない肩書がいいんじゃないかということで「軍師」になりました。

――文三の先輩編集者についても語られた『小説編集者の仕事とはなにか?』は、星海社の若手編集者・丸茂智晴さんとミステリ評論家の佳多山大地さんが聞き役となったインタビューを、丸茂さんから編集担当を引き継いだ栗田真希さんが原稿へと構成する形をとったとか。栗田さんにとっては、初めて編集を担当した本だそうですね。

唐木:僕も原稿に修正を入れましたけど、本としての流れは栗田さんがすべて作ってくださいました。

――唐木さんが先輩編集者から受け継いだこと、後輩編集者へ伝えたいことで、なかでも大切と考えるのはどんなことですか。

唐木:まずは、文三の初代部長だった中澤義彦さんにいわれた「1つの見方に執着しないこと」。小説家がやっているのは、視点人物を造形すること、いわば一つの世界を作りあげることだから、その瞬間は立ち止まって、その人物について考え詰めないと小説は作れない。ただ、隣りにいる編集者は、作品に対して同時にいろいろな見方をしなければならない。

  小説の編集をするうえでも、企画を考えるうえでも振れ幅のある見方が必要だし、振り子の振り幅は大きければ大きいほどいいと教わりました。そのことの大切さは、若い編集者にもお伝えしたいです。

 もう1つは、やはり考えることを楽しんでほしいということです。ただ、考えるためには心の余裕が必要で、それは自分で頑張って作りだすしかない。池波正太郎『鬼平犯科帳』で鬼平は、大変な事件が出来すると、あえて自分で湯を沸かし、お茶を入れて一杯をできるだけゆっくり飲む。そうすると、俺はこんなに落ち着いているんだと、気持ちに余裕が生まれるという描写があるんです。心に余裕があると自身に思いこませることですね。

  あとは、話し相手を持つこと。自分のなかのモヤモヤしたものを外に吐きだすだけでも、いろんなものがまとまってくるので、そういう相手をできるだけ持つようにしていただきたいですね。

■書籍情報
『小説編集者の仕事とはなにか?』
著者:唐木厚
価格:1,595円
発売日:2024年5月22日
出版社:星海社

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