「水木しげる以上に水木しげるを知っていた」関係者に聞く、“伝説のファン”伊藤徹が後世に与えた影響
■伊藤との交流、そして別れ
――岡本さんが知る、伊藤さんの印象深いエピソードを教えてください。
岡本:一番の思い出は、1991年の春、夜間高校の卒業祝いとして水木先生の「鬼太郎と目玉おやじ」の毛筆彩色色紙を贈っていただいたことですね。これは本当に嬉しかったです。他には、宝塚ファミリーランドでの水木先生のサイン会の終了後に音楽の話題になり、私がPANTA&HALのファンだと話すと、伊藤さんが「ライブ観たよ!」と自慢されていたことでしょうか。
――私は伊藤さんって気難しそうな人だなと思っていたのですが、そういうお話を聞くと、実に気さくで仲間想いだなあと感じます。対して、生粋の商売人だったという話もありますが、実際にそうなのでしょうか。
岡本:これについては、答えるのが難しいですが…… 『画業四○周年』や『水木しげる叢書』の“ナンバリングがない物”が古書店にかなり流通していたことや、2008年に枚方映研が出した竹内寛行版『墓場鬼太郎』復刻版全6巻を、自前でオフセット印刷で作り直して売っていたことなどを考えると、やはり“生粋の商売人”になるのでしょうかねえ。
――だんだん闇深い話になってきましたが、岡本さんが籠目舎を去った理由は何だったのでしょう。
岡本:いろいろな経緯があります。まずはじめに、代金を先払いした『キャラクターグッズカタログ』がいつまで経っても出ない不満はもともとありましたが、きっかけは1996年3月に完結した『水木しげる叢書』専用の収納紙箱を作っていたことを、知らせてくれなかったことですね。決定打は、年間購読料を払っていた『紙魚の王国』の発刊が、同年11月発行の第2号で中断し、しかも返金がなかったことで、私はこの時に籠目舎を去りました。その後、1997年2月25日に発売された『水木しげる貸本漫画完全復刻版 墓場鬼太郎』の予約受付を籠目舎が独自に行い、講談社からクレームが来るという事件がありました。私も籠目舎を去る直前の1996年末に予約を入れていましたが、講談社から「籠目舎経由の予約は無効である」という内容の封書が自宅に届きまして、これがさらなるダメ押しになりました。
――伊藤さん、壮絶なやらかしぶりですね。
岡本:この一連の流れは、晩年の伊藤さんが評価を落とした原因でもあると考えています。2007年8月に私用で大阪の梅田に行った帰りに伊藤さんのお店に立ち寄ったのですが、さすがにお互い挨拶程度の会話しかできませんでした。まさか、これが今生の別れになるとは思いもしませんでした。今でも後悔しています。
■作者に認められた稀有なファンだった
――岡本さんも大変な思いをしたと思いますが、伊藤さんをリスペクトされているからこそ、こうしてインタビューに応じてくださったのだと思います。当時を知る水木ファンの中には、伊藤さんの功績を評価される方が少なくありません。現在の漫画好きには、伊藤さんのように“作者よりも作者に詳しい”人は珍しくなりました。
岡本:「関東水木会」の京極夏彦先生や、「一騎に読め!」管理人のBONさんなど、“作者よりも作者に詳しい人”は何人かいるにはいますが、肝心の作家本人が鬼籍に入られているケースがほとんどですし、“作者にも認められた人”は確かに減っていますね。昔の漫画雑誌には、漫画家の自宅住所がファンレターの宛先として掲載されていました。現代ではありえないことですよね。それが廃止されたことで、漫画家と直接コンタクトを取る機会が失われたうえ、長年にわたる不況で活動資金や余暇が大幅に減少したため、研究活動に没頭する余裕がなくなりました。この2点が原因ではないかな、と考えています。
――伊藤さんは、水木先生に会うたびに色紙をもらってきたという話があります。岡本さん宛てにも、色紙を描いてほしいと頼んでくださったわけですよね。しかも、色付きで! なぜそんなことが可能だったのでしょう。
岡本:子どもの頃から水木先生の自宅兼事務所に出入りしていて、水木先生本人から絶大な信頼を得ていたからでしょう。そうでもなければ、そもそも不可能なことですからね。
――2013年、伊藤さんは水木先生より先に亡くなってしまいました(水木先生は2015年没)。神戸で古本屋を営む戸川昌士さんが、著書の『あなもん』の中で「伊藤さんが生きていたらどんな追悼文を出しただろう」と語っています。岡本さんは、伊藤さんが存命であったらどんなコメントを発表したと思いますか。
岡本:……たぶん、気持ちの整理がつかず、まともな追悼コメントを出すこと自体ができなかったのではないでしょうか。実際、私もそうでしたから。