書物という名のウイルス
《勢》の時代のアモラルな美学――劉慈欣『三体』三部作評
歴史的なコンテクストから読み解く『三体』
ところで、『三体』はすでにアカデミックな研究対象となり、現代の古典と呼べる地位を獲得している。もともと、「怪力乱神を語らず」(『論語』述而)という儒教的なタテマエをもつ中国は、SF不毛の地域であったが、『三体』はこの劣勢をほとんど一人で引っ繰り返したばかりか、いきなり世界水準へと到達してしまった(ケン・リュウによる優れた英訳の功績も大きい)。中国人研究者たちはこの前代未聞の現象を受けて、『三体』を改めて中国文学史のコンテクストに位置づけようとしている。興味のある読者のために、その一端を紹介しておこう。
いち早く『三体』に注目した文学研究者は、ハーバード大学の王徳威である。王徳威は21世紀初頭の『三体』を、20世紀初頭の中国小説に見られたユートピア主義の再来として捉えている(David Der-wei Wang ed., Utopia and Utopianism in the Contemporary Chinese Context)。
もともと、中国近代文学の起源には、科学的なユートピアのヴィジョンがあった。社会ダーウィニズムを背景とするジャーナリストの梁啓超は、1902年の『新中国未来記』において、最先端のテクノロジーを吸収し、殖産興業に尽力して世界に冠たる強国となった未来の中国の姿を描き出している(そこには上海万国博覧会の場面を含むが、これは2010年に実現した)。『新中国未来記』はSFというよりは、日本の政治小説(末広鉄腸『二十三年未来記』等)の影響を受けつつ、科学の普及をめざしたジャーナリスティックな著作だが、そこには《新中国》を科学技術+文学の力で創造しようとする意気込みがはっきり示されていた。
この梁啓超のユートピアにはアクチュアリティがある。一帯一路構想を掲げる21世紀の中国は、いわば世界じゅうで歓迎される《新中国》へと生まれ変わろうとしている。高度なディジタル技術を活用しながら、シルクロードを再創造しようとする中国の構想は、大なり小なりユートピア主義的な要素を含むだろう。それに一歩先んじて、1961年生まれの哲学者・趙汀陽の「天下主義」のように、国家間の平和を実現すると称するイデオロギーが台頭していたことも見逃せない。共産主義というユートピア主義はすでに潰えたが、その失敗を償うようにして、天下主義という古くて新しいユートピア主義が浮上したのである(拙著『ハロー、ユーラシア』およびインタビュー(福嶋亮大に聞く、中華圏における現代思想の大変動 「2010年代半ばはアジア政治史の重大なターニングポイント」)参照)。
王徳威が言うように、劉慈欣の『三体』はまさに、梁啓超らが種をまいた一世紀前のユートピア主義およびダーウィン主義の遺産を呼び覚ます小説である。その反面、『三体』の宇宙は、諸文明が平和的に共存する「天下」というユートピアとは逆に、むしろ諸文明がハンターとしてお互いを殲滅しようとするディストピアとして描かれた。してみると、『三体』とは中国のユートピア主義のミーム(文化的遺伝子)が突然変異して生み出された、ダークな変異体なのである。この「変異」の背景に、21世紀の超大国になろうとする中国特有の不安が垣間見えることは、先述したとおりである。
もう一人、香港や大陸で教鞭をとる許子東も、百年の中国小説を回顧した研究書を、梁啓超の『新中国未来記』で始め、劉慈欣の『三体』で締めくくっている。許子東は《水滴》のフォルムや質感の描写を絶賛しつつ、『三体』には次の三層構造があるとまとめている。
一つめ。文革は災厄であり、その災厄は中国を超え出るということ。二つめ。中国の国家としての勢いが日増しに強くなり、ある程度まで地球をリードするということ。三つめ。力は恐怖に由来し、ひとびとが生存を求めるほど、ひとびとは敵になり得るということ。(『重読二十世紀中国小説』)
要するに、『三体』は中国の悲劇の歴史(文革)に根ざし、かつ今の中国の国力を背景としながら、文明間の生存競争を描き切ったというのである。中国の時空間に徹底して内在することによって、かえって中国を超越した宇宙像へと到る――このような両極性は確かに『三体』のユニークさの源泉だろう。
王徳威にせよ、許子東にせよ、『三体』を世界水準のSFであることを認めつつ、あくまで中国の歴史的なコンテクストから読み解こうとしている。実際、道徳をゼロにしてしまった文革の暴力と恐怖が、『三体』のアモラルな場面でたえず反響しているのは明らかである。『三体』に潜むさまざまな暗号には、歴史の亡霊が憑依しているのだ。