山内惠介「いい曲を生かすも殺すも歌い手にかかっている」 “心に迫る歌”を体得してきた25年の変化を語る

2015年の『ファンが選んだベストアルバム』から10年。山内惠介から、デビュー25周年を記念した『ファンが選んだベストアルバム2』が届けられた。
2万通を超えるファン投票で最も得票数の多かった30曲をセレクトし、未発表曲「息子」も加えた31曲が収録された本作。2001年のデビュー曲「霧情」、『NHK紅白歌合戦』に初めて出場したときに歌った「スポットライト」、さらに「北の断崖」「紅の蝶」といった近年の代表曲などが収められ、四半世紀に及ぶキャリアを網羅できるアイテムとなっている。
「歌が嫌いだったらできないし、自分も歌に嫌われないように生きなくちゃいけない」という山内。本作を軸にしながら、歌に対する思い、ボーカリストとしての変遷について語ってもらった。(森朋之)
「歌えるかどうかの世界」——広がりの中で感じた“いいプレッシャー”
——デビュー25周年を記念した『ファンが選んだベストアルバム2』がリリースされます。ファン投票によるベストは10年ぶりですね。
山内惠介(以下、山内):そうなんです。10年前の『ファンが選んだベストアルバム』はCD1枚に収まっていたのですが、今回は2枚組で。ずいぶんと聴き応えのあるベストになったと思います。ジャケット写真は故郷の糸島(福岡県糸島市)で撮ったんですよ。梅雨の季節に、久しぶりに九州ツアーを回らせていただいて。そのときに撮った写真ですね。
——ベストアルバムには「糸島富士」も収録されてますからね。
山内:16位にランクインですね。この曲は、去年出した『紅の蝶(糸島盤)』のカップリング曲だったんです。ベストに入っている曲でいうと、「海、光る」「最後の嘘」「傘」「あなたを想うたび涙が止まらない」も『紅の蝶』のカップリングで。合計5曲もランキングに入ったということは、やっぱり去年はいい年だったんだなって。師匠(水森英夫)に作曲していただいた「北の断崖」は1位ですしね。

——ファン投票の結果を見て、「これは意外だった」という曲もありますか?
山内:「残照」が4位になったのはビックリしましたね。この曲と10位の「古傷」は5年前、コロナ禍の時期に出した曲なんです。ちょうど20周年の年でしたし、本来であればツアーや座長公演を行うはずだったのですが、すべて中止になってしまって。「残照」「古傷」のイントロが流れると、あのときは大変だったなと思い出しますが、ファンの皆さんがこの2曲に票を入れてくださったということは、「僕の20周年を大事に思ってくださっていたんだな」と。本当に歯がゆかったですからね、あの時期は。
——コンサートも席を一つ空けなくちゃいけなかったり。
山内:声援もダメでしたからね。「残照」に〈行くな 行くな 行かないで〉という歌詞があるんですが、コンサートに行くことを周囲から止められた方もいらっしゃったでしょうし。
——「古傷」の〈別れちゃいけない 女(ひと)だったんだ〉という歌詞も、あの時期に照らし合わせるといろんな感情が湧いてきます。思うように人と会えない時期でもあったので。
山内:そうですね。もしかしたら「古傷」よりも〈おまえがいたから 俺がある〉という題名のほうがよかったかも(笑)。このあたりからは、僕自身も曲名によりこだわり始めたんですよ。たとえば「こころ万華鏡」もそう。「『万華鏡』のほうがいいんじゃないか」という意見もあったんですが、どうしても“こころ”を入れたくて。作詞、作曲、編曲の方がいらっしゃるなかで、「歌い手が意見を言うのはどうなんだろう?」とも思いますが、自分に「こうしたい」という思いがあるのなら、それはきちんとお伝えしないといけないなと。芸歴としても、そういう時期に差し掛かったんでしょうね。あと、北海道の歌が多いでしょ?
——確かに!
山内:「北の断崖」「釧路空港」「風蓮湖」「流氷鳴き」「海峡浪漫」「網走3番線ホーム」。ラジオ番組(STVラジオ『山内惠介の歌一本勝負』)を持たせていただいていますし、北海道にも根づかせてもらっていて。僕のステージは、「福岡の糸島出身なのに、北海道を感じられる」というのも一つの柱だと思っているんです。北海道の皆さんにも「山内惠介が北海道の歌を歌うと、新鮮に聴こえる」「住んでいる場所なのに、旅情を感じる」という声をいただくことが多くて。当初は「福岡出身の自分が北海道の歌を歌っていいんだろうか?」という不安もあったんですが、何度も足を運んで、コンサートを通して触れ合ったり、お客様からの嬉しい声をいただくことで、少しずつ「歌っていいんだ」という自信が生まれて。故郷の他に帰る場所があるって、素敵ですよね。山内惠介の生みの親は福岡ですが、歌手・山内惠介の育ての親は間違いなく北海道ですね。
——この数年は音楽性も広がった印象もあります。ラテンの要素を大胆に取り入れた「紅の蝶」もそうですが、様々な作曲家とタッグを組むことで、歌い手としての幅が広がって。
山内:僕自身、ジャンルに関係なく、そのときに好きなものを聴くタイプで。歌手としても“演歌・歌謡曲”一色になるよりは、バラエティに富んでいたほうが聴いていても楽しいだろうなと。自分のアルバムやステージがそうなっていくことを夢見ていたところもありましたが、ただ「歌えるかどうか」の世界ですからね。ポップスを歌い始めた頃はついコブシが回ってしまうこともあったんですよ。必要なコブシならいいですが、そうでなければ取ったほうがいい。そういう経験が、演歌や歌謡曲を歌うときも活きるんですよ。足していくばかりではなく、引き算も大事。織田哲郎先生、伊秩弘将先生、村松崇継先生にいただいた楽曲を通して、そういったことも学んでいきました。
——当然ですが、曲に合った歌い方をしなくちゃいけない。
山内:そうですね。今回のベストで改めて思いましたけど、全部いい曲なんですよ。いい曲だから生まれてきたのであって、それを生かすも殺すも歌い手にかかっている。本当に重要な役割だと思いますし、いいプレッシャーを受けながら歌わせていただいています。特に『紅白』に初めて出させてもらってからの10年は、ステージで歌う機会がさらに増えましたし、とにかく場数を踏ませていただいて。それが糧になり、自分の声をもっと試してみたいと思ったきっかけにもなりました。
「心を歌で代弁するためには、自分自身の経験が大事」
——「納得できる歌い方ができるまでに時間がかかった」という曲もありますか?
山内:それはもう「冬枯れのヴィオラ」ですね。この一つ前(にリリースしたの)が「白樺の誓い」で、それは青春の歌なんですね。その直後に東日本大震災が起こり、世の中がまるっきり変わってしまって。当初は「歌は必要ないんじゃないか?」などと思ったのですが、時間の経過とともに考え方が変わってきまして、『演歌キャラバン隊』(演歌・歌謡曲歌手による被災地巡回公演)に参加させていただいたり、個人的にも被災地に足を運んで、歌を聴いていただく機会を作らせてもらったり。その後にリリースしたのが「冬枯れのヴィオラ」で、このとき初めて作詞家の松井五郎先生に詞を書いていただいたんです。安全地帯、氷室京介さんをはじめ、数多くの歌詞を書かれてきた方ですが、「冬枯れのヴィオラ」も本当に素晴らしくて。〈木枯らしに襟を立て 街角でひとり〉という最初の歌詞から、それまで歌ってきた演歌とはまったく違っていたんです。
水森先生のメロディも歌謡曲調で。この曲を出したときに「山内惠介が歌っているとは思わなかった」という感想があったくらい印象が違っていたみたいですね。レコーディングでは本当に苦労しました。キーも高くて、特に〈恨んでもかまわない〉の“い”がなかなか出なくて。“い”は喉を締めるように出すので、苦しいんですよ。それでも松井先生、水森先生、ディレクターの方が辛抱強く粘ってくれて。レコーディングで何度も歌っていくなかで、たまたま“い”が出たんですよね。電流が走ると言いますか、身体が鳴っている感じがあって。そのときのことは今でも覚えています。
——すごい体験ですね……。
山内:今でもギリギリで熱唱しています。不思議なもので、半音高い音が出ると、低いところも広がったんですよ。たった半音ですけど、額縁が広がったと言いますか、それまでとはスケールが全然違って。歌ってそういうことなんだなって実感したし、「冬枯れのヴィオラ」との出会いは転機になりました。その後、松井先生にはたくさんの歌詞を書いていただいて。今回のベストに入っている曲でいうと、「涙くれないか」「さらせ冬の嵐」「唇スカーレット」「紅の蝶」「残照」「こころ万華鏡」「こころ雪化粧」「ちょっと、せつないな」がそう。松井先生との出会いによって、自分の幅が広がったのは間違いないですね。
——表現できる曲の幅が広がった、と。
山内:はい。あとは声を出すコツと言いますか。師匠の水森先生から「歌は井戸と同じ。いい場所を掘り当てることで、水が出るように声も出る」と教えていただいたことがあって。……こんな話、わからないですよね(笑)。
——そうですね(笑)。技術というより、感覚的なことなんでしょうか?
山内:それもありますし、僕も最初はわかってなかったんです。数年後に少しずつ理解できるようになって。僕が恵まれているなと思うのは、作曲や作詞の先生方、スタッフの皆さんに「今わかんないかもしれないけど」と言う人はいなかったんです。そのときに教えたいこと、伝えたいことをしっかり話してくださって。それが自分の糧になってるんですよね。あとはもちろん、お客様ですよね。

——コンサートで歌い、届けることで表現が変わってくる?
山内:そうです。レコーディングのときは歌と1対1で向き合うじゃないですか。お客様がいてくださると、どう歌ったら琴線に響くのかを考えますからね。歌はライブで育てられるんだなって。詞の捉え方も変わってきますよ。〈黒髪指(ゆび)に 巻きつけて/霧の波止場を さまよえば〉(「霧情」)も、(デビュー時より)今のほうが表情や抑揚がついているので。一言一句「どうしたらこの言葉が際立つんだろう?」と考えるようになったし、脳トレみたいなものですね(笑)。イマジネーションもとても大切で。僕自身がしっかり“波止場”を想像できていれば、聴いてくださる方も必ず何かしらの情景を思い描いてくれると思うんです。
——なるほど。
山内:あとは「どうして波止場に行きたくなるんだろう?」ということも考えますね。自分の傷を癒すためだったり、亡き人のことを思い出すシチュエーションだったり。それを思い浮かべれば、目線だって自ずと変わってきますから。命というのは当たり前じゃないし、何かがちょっとズレたらなくなってしまう、儚いもの……そういうことも少しずつわかってきたと言いますか。悲しいこと、辛いことも活かされているんですよね、そういう意味では。多くの人たちの心を歌で代弁するためには、何よりも自分自身の経験が大事。辛いことがあったり、壁にぶつかっても「これはいい歌を歌えるようになるための試練」だなと。よく「若い時の苦労は買ってでもしろ」なんて言いますけど、本当にその通りだなと思います。


















