ヒグチアイ“独り言”三部作「わたしの代わり」インタビュー:年を重ねることで生まれる“葛藤”や“矛盾”との向き合い方

ヒグチアイの“葛藤”や“矛盾”

 ヒグチアイが3カ月連続で届ける「“独り言”三部作」。その第二弾となる「わたしの代わり」は、“誰かを傷つけることなく、そっと届けたい言葉”を、誰にも見せたことのない感情の奥底から静かに紡いだ楽曲だ。誰かを責めるでも、慰めるでもなく、ただ自分の感情と真っ直ぐに向き合った歌詞。そこには年齢を重ねたからこそ感じる苛立ちや、言葉にならない寂しさ、そして「それでも続けたい」という願いが込められている。

 リアルサウンドでは本作のリリースに合わせ、引き続きヒグチへロングインタビューを行った。「感情をうまく出せない自分」との向き合い方、他者との関係性の中で生まれる葛藤と昇華、そしてユーモアに託された“傷つけたくない”という思い。さらに、実家の取り壊しをきっかけに掘り返された過去の記憶や、今後に向けたツアーへの展望についても、赤裸々に語ってもらった。

 軽やかさの中に、静かな決意がある。ヒグチの「独り言」は、今も、変わらず私たちの心に触れてくる。(黒田隆憲)

あまり頑張れない自分や、何かを諦めてしまっている自分に向けた言葉たち

ヒグチアイ 撮り下ろし写真(撮影=林将平)

ーー「エイジング」は、ヒグチさんご自身の体験を起点にしながら、現代の風潮に対して一歩先をいくようなメッセージも感じられ、ある種のメッセージソングと言える内容でした。それに対して新曲「わたしの代わり」は、よりパーソナルで内省的な印象を受けました。すでにライブでは披露している曲ですが、どんなふうに生まれたのですか?

ヒグチアイ(以下、ヒグチ):確か去年のワンマンツアーのときにはすでにできていたと思います。だからちょうど1年前くらいですね。多分……当時はしんどかったんだと思います。何がそんなにつらかったのかは覚えていないんですけど。最近、そういうことがよくあるんですよ。「きっとしんどかったんだろうけど、具体的に何だったかは思い出せない」みたいな。

 あと、当時は周囲の友人が活動休止や解散をする話をよく耳にする時期でもありました。そういう話を聞いていると、「自分はいつまで求めてもらえるんだろう」とか、「今の自分に対して、どこかで諦めてしまっている部分があるんじゃないか」とか、いろいろ考えてしまったんですよね。

ーーそれはやはり、この曲のタイトルにもある「わたしの代わり」という言葉のように、自分がいなくなっても代わりはいるんじゃないか、みたいな気持ちになってしまう体験というか。

ヒグチ:そうですね。「諦め」に近い感覚も含まれていたと思います。自分って、ある意味では“取って代われる存在”なのかもしれない。でも、だからといって「じゃあ頑張らない」というわけでもなくて。あまり頑張れない自分や、何かを諦めてしまっている自分に対しても、「それでも生きていていいんだよ」って、自分自身に言ってあげたかったのかもしれません。

 たぶん私、自分の曲でずっと言われたいのは「そのままでいいよ」っていう言葉なんですよ。甘やかされたいんだと思います。でも、甘やかされたからって本当に大丈夫なのかというと、そんな簡単でもない。だから、「そのままでいい」と言われたいけど、自分で自分にそう言ってあげることはできない。「こうありたい」と思いながら、それを叶える努力ができていない自分、でもそんな自分でも生きている事実を、歌にすることで肯定したかったのかなと。

ーー冒頭の〈きみはそれでいいのよと言われると/こんなんじゃダメって思う きみはもっとこうしなよと言われると/なにがわかるんだって思う〉という歌詞が、今おっしゃったことを端的に表していますよね。

ヒグチ:そうですね。なんというか……ずっと「どっちでもない」感じなんですよ。頑張れるときもあれば、頑張れないときもある。言われたくないときもあるし、でも言ってほしいときもある。自分の気持ちって、24時間365日ずっと「頑張る」モードでいられるわけじゃなくて。

 ずっと頑張り続けられたらいいけれど、たぶん人間ってそんなふうにはできていない。頑張れない瞬間だけを拾い上げて、「やっぱり自分なんてダメだ」と思ってしまうこともあるし、それまでちゃんと頑張っていたことを、自分自身が見てあげられないこともある。ひとつの感情だけで生きていけるわけじゃない。だからこの曲も、そんなふうに揺れ動く感情を抱えながら生きている人たちに向けて書いた歌なのかもしれません。

ヒグチアイ 撮り下ろし写真(撮影=林将平)

ーー目の前の「やらなきゃいけないこと」や直近の課題に自分自身の“頑張り”を全振りしてしまい、本当にやりたいことや、自分の価値を置くべきことが後回しになる。そんな日々の葛藤も、この曲には滲んでいる気がします。

ヒグチ:そんなことばっかりですよ、本当に(笑)。年を重ねれば重ねるほど、「ああ、これが現実か」って感じるようになりました。若い頃は夢の中を生きているような感覚もあったけど、それってただ解像度が低かっただけ。いま思えば、「結局こういうことだったんだな」と思います。頑張っている自分に酔えていたし、頑張れていない自分にも酔えていた。でも、それも含めて自分なんですよね。毎日、そんなふうに気持ちを行き来しながら生きています。

ーーだから、仕事がたくさんあって日々ちゃんと働いていても、それで本当に「大丈夫」とは言いきれないというか。

ヒグチ:自分のことを後回しにしているな、と思う瞬間はありますよね。こうやって曲を書いていて改めて感じるんですけど、人のために頑張ることで、自分の価値を保っている部分もある。でも本当は、自分のために、自分の時間をちゃんと使ってあげることが、一番自分のためになる……はずなのに、どこかで「ま、私はいいか」と自分を後回しにしてしまう。

ーーわかります。すぐお金になったり、成果として目に見えたりしないことは、つい後回しにしてしまう。本当は、もっと長く続けるために必要なこと、自分にとって本当に大切なことを考えなきゃいけないのに、目の前の「やらなきゃいけない仕事」に気持ちを持っていかれてしまうんですよね。

ヒグチ:そうそう。誰かに「求められる」ことって、きっと楽なんですよ。そこに自分の価値を見出すほうが、精神的にもずっと楽だし、「誰かの役に立っている」「社会に貢献している」という意識も持てる。昔は「なんで大人はあんなに人のためばかりに動くんだろう」「どうして自分のためにお金を使わないんだろう?」と思っていました。でも、自分もだんだんそうなっていくんだな、と。どんどん“主人公”じゃなくなって、脇役になっていくような感覚……もちろん、それが悪いことだとは思わないけれど、私はまだその“狭間”にいる気がしています。

ーー社会の一員として人のために頑張るのは素晴らしいことだと思う一方で、自分が本当にやりたいこと……たとえば創作とか、純粋な好奇心や欲求から生まれる何かを後回しにしてしまうジレンマですよね。

ヒグチ:まさに。「誰にも求められなくても、ついやってしまうこと」こそ創作の原動力だったりするのに、そこにリソースを割けない現実がある。友達や、子どもを産んで育てている人たちを見ていると、「自分のための時間」はもっともっと少なくなっていくんだろうなって思います。そうなると、「私は自分に何をしてあげたいんだろう」って、すごく考えるんですよね。

 昨日もそんな話をしていましたよ。「人って死ぬとき、たいていお金を使い切れずに亡くなるらしいよ」って。じゃあそんなに残してどうするんだろう。「60歳や65歳になってから使えばいい」と言われても、その頃にはもうできないこともあるよね? みたいな話になって。じゃあ“今しかできないお金の使い方”って何なんだろう? と考えたときに、何も思い浮かばなかったんです。お金を払えばできることに、あまり興味がなくなってきている。むしろ、自分が努力しないと手に入らないもの……たとえば「英語を話せるようになりたい」みたいな、“自分の頑張りがすべて”みたいなものに、今は価値を見出すようになってきた気がしますね。

〈冷凍庫がいっぱい〉〈度の合わないメガネ〉…自分の中に常にある「矛盾」

ヒグチアイ 撮り下ろし写真(撮影=林将平)

ーーその一方で、〈今日もダメだったってカレンダーに×をつける日々〉〈何冊もの途中で終わってるノート〉〈何枚もの完成されなかったイラスト 何本もの結末の知らない本/何曲ものばらばらの歌〉という日々を繰り返してしまう。

ヒグチ:今の自分をもっと価値あるものにしたいとか、豊かになりたいとか、いろんな体験をしたいって思うのは、とても良いことだと思うんです。それは、自分とちゃんと向き合おうとしている証拠でもあるし。でも、「よし、やるぞ!」って思った気持ちが途中でぷつんと切れてしまったり……。

ーー「読もう」と思って買った本を積読にして自己嫌悪になって、そのうち本を見るのも嫌になったり。

ヒグチ:私、そういう本を全部処分しちゃったこともあります(笑)。「こんな自分は嫌だな」って。頑張ろうとしたことが、逆に「頑張れない自分」を突きつけてくる。それがつらくて、やめちゃうんですよね。そういう人を側から見たときは、「そんなに自分を責めなくてもいいのに」って思うのに、自分もやっぱり似たようなことをしてしまう。今日こそは頑張ろうと思っても、次の日にはもう気力が続かなかったり、何日か続いたとしても、何かになる前にやめちゃったり……ほんと、日常の中でそういうことばっかりです(笑)。

ーー曲の中で〈冷凍庫がいっぱい〉や〈度の合わないメガネ〉といった印象的な比喩が出てきます。

ヒグチ:ふるさと納税をたくさんしていて、今年はちょっと反省を込めて控えているのですが、以前すごく大きな冷凍庫付きの冷蔵庫を買ったんですよ。「こんなに大きな冷凍庫があるんだから、いくらでもふるさと納税できる!」って(笑)。それで食べたいものばかり頼んで、冷凍庫をパンパンにしていたんですけど、食べ切るのに本当に苦労しました。気に入ったものは食べるし、美味しかったものはリピートもするけど、やっぱり少しずつスーパーで買って、その都度食べるほうが私には合っていたんです。

 一気に買い込んで冷凍庫に入れると、もうその時点で満足しちゃって。で、気づいたら冷凍焼けしていたりして。料理もそんなにしないのに、なんであんなに買ったんだろうって思います。でもそのときは「これをやれば日々がもっと彩り豊かになる」と思っていたんですよ。「これを読めば、今よりもっといい自分になれる」と思って本を買うのと同じで。そういう、自分の中の「やる気」と「実行」のギャップを、〈冷凍庫〉という言葉で表してみました。

ーー〈度の合わないメガネ〉は?

ヒグチ:私、飛行機がすごく苦手で、乗るとき大抵は睡眠導入剤を飲むんですけど、それを飲むと、たとえ揺れていても心臓のバクバクが抑えられ、怖さも少し和らぐんです。そのときに、「感情って身体の反応に左右されるんだな」と気づいたんですよ。心が先じゃなくて、身体の反応が先にあって、それに感情がついてくることもあるんだなと。しかも、薬で感覚がぼんやりすると、怖さだけじゃなくて他の感情まで鈍くなる気がして。そうすると、「そんなふうに感覚を鈍らせたままで生きていて本当にいいのかな?」という気持ちになってくる。

 〈度の合わないメガネ〉は、そういう「感覚がぼやける」とか「自分と世界の間に膜が張っている」感覚の喩えです。大人になると、そういう鈍さや諦めを受け入れてしまうこともあるけど、それを本当によしとしていいのか? という自分の中に常にある「矛盾」ですね。

ーー実際、その矛盾とどうやって折り合いをつけているんですか?

ヒグチ:いやもう……ほんと、どうやっているんでしょうね(笑)。怒りそうになったら、実際に怒っちゃうときもありますよ。最近もありました。ただ、その感情をそのまま相手にぶつけちゃうと関係が終わってしまうじゃないですか。この年齢になると、「関係が終わってもいい相手」って、もうほとんどいないんですよ。仕事でも、友達でも、だんだん人間関係って狭くなってくるし、そういう中で一度切れてしまったら、もう二度と戻れないこともある。

 だから、たとえ気持ちが「もう無理!」となっても、そのままぶつけたりせずちゃんと冷静に言葉を選び、必要なことだけ伝えるよう心がけています。その代わり、どうしても言葉にできなかった「感情のまま」の部分は音楽の方に持っていく。現実の関係は大事にしながら、音楽の中でちゃんと自分の気持ちを昇華する。結果的に、そういうふうに自分の感情を扱うことが、いい仕事にもつながっている気がします(笑)。

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