keinでの過去はkeinをやることでしか払拭できない――眞呼と玲央が語る、22年後の続きとメジャーデビュー
2000年の解散から22年の時を経て2022年に再結成したkeinが、2024年11月20日、ついにメジャーデビューを果たした。
リリースされたEP『PARADOXON DOLORIS』には全5曲を収録。どれもkeinらしさを内包させながら、しっかりと現在を落とし込んだ楽曲たちが揃っている。
なぜ今メジャーデビューしたのか、なぜ22年ぶりの復活を果たしたのか、そしてバンドにとって初となるEP『PARADOXON DOLORIS』にはいかに今のkeinが投影されているのか――。deadman、LOA-ROARでも活動する眞呼(Vo)とlynch.でも活動する玲央(Gt)のふたりにじっくり話を聞いた。(編集部)
自分に足りないものを持っているバンドはkeinだと思った(玲央)
――メジャーデビューおめでとうございます。メジャーデビューの経緯や新作のことは後ほどお聞きしようと思うので、まずその前にkein再始動の経緯から教えてください。
玲央:2022年に僕がやっているlynch.の一時活動休止が決まって、その休止期間中に自分自身のために何をしたらいいのかということを考えた時に、自分に足りないものを持っているバンドはkeinだと真っ先に思ったんです。当時のメンバーと当時の楽曲を演奏して、自分自身を高めていきたい、と。原点回帰とともにそれぞれ経験を積んだメンバーと音を合わせることで、もっともっと自分のキャパシティを広げていきたいという思いで声を掛けていきました。
――そのなかで、Sallyさんという新たなドラマーを迎えての再始動となりましたね。
玲央:現役で活動しているメンバーが「もう一度keinをやりたいんです」という誘いにふたつ返事でOKしてくれたので、aieさんに紹介していただいたSallyさんにも声を掛けつつ、晴れてkeinを再結成することになりました。
――先ほどおっしゃっていた“自分に足りないもの”というのは、具体的にどのようなものだったのでしょう?
玲央:lynch.を長年続けていて、いい意味でも悪い意味でもフォーマットができていたんです。でも、このkeinは、フォーマットがないバンドだった。それに加えて、2000年の突然の解散を受けて、自分自身でもまだやり残していること、やりたかったことがあって、それは20年以上経っても消えませんでした。そのうえで――もしかしたら、これは語弊のある言い方になりますが――lynch.の活動休止によって自由な時間をもらえたと前向きに捉えて、そのなかで自分がいちばんやりたいことは何だろうと考えた時に真っ先に浮かんだものがkeinだったんです。
――同様に眞呼さんもkeinというバンドに対して引っ掛かっていたものがあったとのことですが、それはどのような引っ掛かりだったのでしょう?
眞呼:まだたくさんできたな、っていう。やれたはずだったことができずに途中で終わってしまったので、そのフラストレーションというものはずっと持っていました。もちろん、そのやれたはずだったことをdeadmanで叶えたとしても、そのフラストレーションが消えないのは当然で。ふたつのバンドではそれぞれベクトルが違うし、やはりkeinでの過去はkeinをやることでしか払拭できない。当時keinでやりたかったことをやりたいという思いは、ずっと持っていました。
――ということは、お互いにkeinというバンドに対して抱えていた想いは共通していたんですね。眞呼さんとしてはdeadmanの復活があったからこそ、keinの再結成にも前向きになれたという側面もあるんでしょうか?
眞呼:そうですね。deadmanのことがなかったら、keinのことは考えられてないと思います。
――こう考えると、やはり運命めいたものといいますか、起こるべくして起こった再結成のように感じます。そういう意味では、1997年の4月に結成したkeinが、ちょうど結成25周年を迎える2022年の4月に「嘘」のリリックビデオをアップしたのも意図的だったのでしょうか?
眞呼:……まったく考えてなかった(笑)。
玲央:(笑)。でも、このkein再結成までの流れというのは僕がシナリオを書いてメンバーにプレゼンをして実現できたものなんです。なので、エイプリフールに新録した「嘘」をアップして、5月1日にホームページをアップして、解散した日と同じ8月21日に会場を押さえて、『はじまり』というラストライブと同じタイトルで再結成するというところまで考えていました。
――そこまで練られたシナリオがあったなんて、さすが玲央さんですね。
玲央:だからこそkeinを皆さんに知ってもらううえで「嘘」は新録した音源でなければいけなかったし、新たに撮影したアーティスト写真を公開するのは僕のなかでマストでした。余談にはなってしまいますが、実は8月21日のセットリストは、並びこそ違うものの、ラストライブの時と同じ楽曲で構成されているっていう仕掛けがあって。でも、誰も気づいてくれなくて……(笑)。
解散前のkeinは「意固地にも思えるような感覚をみんなが持っていた」
――嘘をつく日であるエイプリルフールに「嘘」のリリックビデオをアップしたのはとても粋な演出ですよ。個人的に、当時のkeinを「全員が四番バッターになりたかった人の集まり」と表していたのが印象的で、僕からすると素晴らしいキャリアを積んで、今でもなお四番バッターを張るようなスターが集まったバンドに映るのですが、再び集まってみてその印象というのは変わりましたか?
玲央:当時は常に大振りでホームランを狙うような四番バッターが揃っていたんですけど、22年間を経て、今は全員が送りバントのできる四番バッターになったなと実感しました。
――チームプレイを覚えたということですね。
眞呼:当時は全員が主役で、ライブが始まった途端に全員が前に行っていたんです(笑)。それを考えると、みんな大人になったんだなとは思いますね。
――ちなみに当時のkeinというバンドは、どんなバンドだったと思いますか?
眞呼:当時の主流とされるヴィジュアル系の枠とは違ったところにいたバンドだったと思います。名古屋系の流れとかもありましたし、keinもそのなかに入ってはいたんですけど、そこではないところを目指していたというか。
玲央:とにかく、当時流行っていたものとは違うことをやろうとしていたのと同時に、特殊であり、奇妙な存在でありたいというのを常に意識しながら活動していました。なので、あるビートが今流行っているなら、絶対にkeinではそれをやらないという。ある種意固地にも思えるような感覚をみんなが持っていたように思いますね。
――それってある意味、黎明期のヴィジュアル系的な発想でもありますよね。
玲央:もっと言ってしまえば、僕のなかの名古屋系ってそれなんですよ。マインドの話で。東京で流行っているものを追いかけるのではなく、別のアプローチをしようっていう。だから、名古屋系と呼ばれるアーティストってすごく個性的なバンドが多いと思うんです。
――そうですね。
玲央:それに、息の長い名古屋バンドはみんな個性の塊だったりするので、その人たちを真似するのではなくて、その人たちのスタイルやマインドを真似して、そのうえでとにかく人と違うことをやろうと模索していました。
――そのスタンスというのは、kein以降に玲央さんが組んだGULLETやlynch.といったバンドにも十分に表れていますよね。そういった意味で、kein解散以降22年のあいだ、お互いのことをどのように見ていたのでしょう?
眞呼:玲央さんって、見る目があるなと思うんです。新しくバンドを組むたびに、これまでとはまったく違う別のアプローチをするじゃないですか。しかも、lynch.に至っては洋楽寄りの音楽性で、あの声が出るボーカリストを連れてきて、あの楽曲をやっちゃうんだと思って。僕は自分ができることしかできないので、あの方向を見出してやっているのはすごいし、僕にはできないなと思います。もし玲央さんがまた新しくバンドを組むことになったら、きっとまったく違うことをやると思うんです。ひとことで言ってしまえば天才だなって。
――玲央さんはいかがでしょう? 以前、「lynch.を続けられたのはdeadmanのおかげ」と言っていたこともありました。
玲央:純粋に憧れていました。すごく自由にやっているな、って。人間には適性や向き/不向きがあるので、lynch.がdeadmanと同じ活動スタンスや制作プロセスを採ったところで絶対に上手くいかないというのは僕が客観的に見ても思います。なので、やらないし、やれない。だからこそ、憧れを持っていました。それと同時に、「deadmanには負けたくない」という気持ちも持っていたので、それが自分のなかの活力になっていたし。