岡村靖幸は欲求の奥にある承認を満たす 女性の“内面”を見つめる言葉の刺激と輝き
岡村靖幸が〈承認欲求満たされたいなら僕でどうぞ〉なんて歌っていて、その強気な言葉選びにまたしてもヒリヒリとさせられた。僕なら君の承認欲求を満たせるのに! というウジウジとした感じでもなく、もう少しクールに、自分ごとこちらに差し出して「もし必要ならばいつでも」というような。
一瞬、戸惑う。だって私たち(というより私)は選ぶ側になることに慣れてない。選ばれて手を引っ張られて2人だけの世界に引き寄せてくるような曲はかつてJ-POPで散見されたけれど、こんなふうに差し出されたことはない。すごく刺激的。にしても性の匂いがムンとするこの表現に、なぜこんなにも心強い気持ちにさせられるのかといえば、性的欲求のその奥にある承認をこの男なら与えてくれるに違いないという予感がするからかもしれない。
これは斉藤和義とのユニット・岡村和義による「カモンベイビー」にある一節。この曲はFM COCOLO「UPDATE」の春のキャンペーンソングで、“ちょっと新しい自分へUPDATEしよう、考え方を切り替えよう”というテーマのもと書き下ろされたという。岡村和義は「UPDATEというとパソコンやOSのアップデートをイメージしますが、人間自身もUPDATEしなくてはいけない、そして我々自身がデジタルや文明に依存しない事も大切」とコメントしている(※1)。
狙いを定めさえすれば瞬時に何百、何千、何万と承認を得られるこの時代に、欲求を満たすことはそう簡単なことじゃない。もはや単純な刺激を得ただけで解決できることなんて高が知れていて、異性や同性から性の対象としてちょっとチヤホヤされたぐらいで満足できる体じゃなくなってる。それを曲の書き手もわかっているし、書き手がわかっていることを聴き手もわかっている。この〈僕でどうぞ〉は「僕なら君の本当の魅力を知っている。安易で表面的な承認とはわけが違う」という自信に裏打ちされていて、だから不意に胸にくる。
思えば、昔から岡村靖幸の曲には自分は選ぶ側であるという驕りがなかった。相手に対する欲望を剥き出しにした初期のラブソングには、“自分には敵わない相手”として女が登場する。例えば〈ぼくのチャームポイントは体だけ?〉(「ビスケットLove」)、〈新しいボーイフレンドと いちゃつかないで 僕の車の中で〉(「妻になってよ」)、〈きっと 本当の恋じゃない 汚れてる/僕の方が いいじゃない〉(「聖書」)なんて言う。女を神秘的な存在とするわけでもなく、愚かさをもすべてひっくるめた上でこちらを高く置く。男を品定めしたがる女のことも、妻帯者と付き合う女のことも、自分を都合のいいように使う女のことも、軽蔑するでも同情するでもなく、そのへんの男より僕の方がいいのにどうして? と後ろから追いかけてくる。
そんな彼の音楽が男性からも熱く支持されていることを考えると、こうしたいじらしさというのは多くの男の中にも存在する感情なのかもしれないなとも思う。考えてみれば一昔前の男性ミュージシャンの曲によくあった「俺は良い女と悪い女を見分けることができる」とも言いたげな、やけに女に態度が悪い表現も裏を返せば情けない男のせめてもの強がりみたいなもので、本音は岡村靖幸が表現してきたものとそう変わらないような気がする。