TUBEをチーム一丸となり盛り上げたスタッフたちの奮闘 ぐあんばーる社長 菅原潤一氏とともに振り返る【評伝:伝説のA&Rマン 吉田敬 第6回】

点と点を後で線でつなぐ、まず行動が先にある人

 小澤氏は、その後Tプロジェクトに異動となり、TUBEの次のアルバム『HEAT WAVER』からA&R担当として奮起することとなる。敬さんは引き続きTUBEのタイアップを次々と実現させていったという。

「TUBEの(ルーティンの)リリースプランは、梅雨時6月までに遅くてもアルバムのリードとなるシングルを出す。タイアップ次第では5月のゴールデンウィーク前に出すこともある。だいたいこの時期に清涼飲料水のCMがたくさん流れますよね。その場合は5月頭にシングルを出して、それでコンサートをその時期にまわりはじめて、梅雨時6月にもう1枚シングルを出して、7月にアルバムを出すというのが何年か続きましたね。
 吉田君はそんな基本とは関係なく、突然“ドラマ(タイアップ)決めたいんですけど”あるいは“決めてきたから曲を書いてください” という感じでやってくる。『HEAT WAVER』のリリースとは関係なく、ドラマ主題歌の話を突然持ってきたこともあったな」(菅原氏)

 敬さんが新たに獲得したそのタイアップは、1998年7月クール、フジテレビ系水曜21時枠のドラマ『世界で一番パパが好き』(主演:明石家さんま、広末涼子)だった。ドラマのために書き下ろした楽曲「きっと どこかで」は、8月にリリースされ、40万枚を超えるスマッシュヒット。『HEAT WAVER』には収録されないものの、このヒットがアルバムにも波及して、ロングヒットとなり、TUBEは、同楽曲で二度目の『NHK紅白歌合戦』出場を果たす。

「吉田君は、色々なことを計画的にちゃんと理解してやっているというより、これはと思うタイアップを取ってくることで、プロジェクトを活性化させることを大事にしていたように思う。最初から線を引いてということじゃなくて点と点を後で線でつなぐという。ああでもない、こうでもないとうんちくだけ語ってあとは動かないようなタイプはいっぱいいるけど、吉田君はまず行動が先だった。そこからどうするかを考えていた」(菅原氏)

 1999年から2000年にかけて、TUBEは15周年と2000年6月1日開催のハワイ・アロハスタジアムでの行われるライブに向かって、怒涛のスケジュールを歩むことになる。
 ソニーレコードのスタッフは、ハワイに乗り込み、宣伝回りを中心としたツアーサポートの仕事を行っていた。現地には多数の媒体を招待し、この歴史的イベントの模様を取材してもらっていたのだ。実は、この僕もそのスタッフの中にいた。
 そんな中、敬さんは将来を見据えた別な動きをしていた。五藤氏もハワイを訪れアロハスタジアムのライブを観賞したが、その夜、敬さんは社内独立を画策し、五藤氏に直談判したのではないか、そんな想像が僕の脳裏に浮かぶ。現場仕事でへとへとになった僕の目に入ってきた五藤氏と険悪な雰囲気でたたずむ敬さんの姿と、翌日晴れやかな表情をみせ、妙に機嫌のよい笑顔の敬さんの姿のギャップが気になったのだ。ことの真偽はさておき、アロハスタジアムから約1カ月後の発令でデフスターレコーズが誕生した。

 デフスターレコーズの誕生により、平井堅やthe brilliant greenはデフスターに移ったが、TUBEはソニーレコーズに残ることとなった。敬さんがいなくなってもTプロジェクトの名称はそのまま残ったので、そこで組織的にはTプロジェクトのTが何を示したかの結論は出たのかもしれない。見方を変えれば、敬(たかし)のTプロジェクトは終わり、本当の敬(たかし)プロジェクトがデフスターに引き継がれたともいえる。ぐあんばーる菅原氏と敬さんとの関係はそこで一旦ピリオドとなったが、敬さんがワーナーミュージック・ジャパンの社長になった後も、接点は断続的に続いた。

 そして2010年。敬さんが亡くなったあの日。僕らワーナーミュージック・ジャパンのスタッフより先に敬さんの自宅の前に到着していた菅原氏は、遅れて現れた僕らを見るなり「遅い!」と一喝した。その姿が、今でも鮮明に記憶に残っている。

「スポーツ紙の記者から携帯に連絡があり吉田君の訃報を聞いた。いてもたってもいられなくなり、電話の途中でご自宅に向かった。とにかく動揺して動転して。到着してしばらくするとあなた方が来た。もうあんな男が現れることはないのかな。われわれ芸能界の裏方の中で亡くなって10年以上経過した今でもこうして思われたり、語られたりする人はあまりいないんじゃないかな。それだけ彼がしてきた功績は大きいと思うし、今のSNS時代にも、ヒットを生むための何らかのヒントを残してくれているんだと思う」

 最後に、菅原氏は敬さんとの、こんなエピソードを懐かしそうに語ってくれた。

「『電波少年』のリオデジャネイロでのロケが終わって。ハワイから着の身着のまま、手荷物一つで行ったので、前田も僕も吉田君もTシャツと短パンなんですね。それで日本に帰るには、ニューヨークで1泊して乗り換えなので、ひとまず飛行機に乗って向かったんです。で、3人とも英語があまり得意ではないので、到着したというアナウンスが機内に流れたと思って、パッと降りたら、雪が降ってるわけ。しかも出口まで歩いてきたら雰囲気が違う。ニューヨークのJFK国際空港は二度ほど来てたから、何か違うと。間違って別の飛行場に降りちゃったと。それで、慌ててやばいと、3人で走って。たまたまJFK行きの国内便に乗れたからよかったものの、あのまま置いてけぼりにされたらどうなっていたんだろうと(笑)。で、なんとか早朝JFKに着いたら、さらに大雪で。前田はトレーナーを持ってて大丈夫だったけど、僕と吉田君はとにかく寒くて。ホテルに辿り着いて、朝10時には店が開くだろうから、それまで震えながら待って。やっと時間になり、何とかダウンジャケットを買いに行けた。なぜかこの時の光景を今でも思い出すんだよ」

※1:https://realsound.jp/2023/03/post-1277000.html
※2:https://realsound.jp/2023/04/post-1294426.html

評伝:伝説のA&Rマン 吉田敬 第0回「敬さんに近づく旅」

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