【浜田麻里 40周年インタビュー】第1弾:“ヘヴィメタル”を掲げて鮮烈なデビュー 音楽性の確立やイメージとの葛藤、伝説の『MUSIC WAVE 84』まで振り返る

浜田麻里 40周年インタビュー第1弾

B'z始動前の松本孝弘と共演、初シングル発売裏には意外な秘話も

――4thアルバム『RAINBOW DREAM』(1985年1月)をリリースした頃には、まだ初期の事務所に所属していましたよね?

『RAINBOW DREAM』

浜田:そうですけど、内情としては離れていたのと一緒です。単独で私のことを担当するマネージャーのような人がいて、その人と一緒に動いてましたね。アルバム制作に関しては、ビーイング内の信頼していたディレクターだけが頼りでした。

――『RAINBOW DREAM』はどんなアルバムだと振り返ります?

浜田:私が一番記憶にあるのは冒頭のアカペラなんです。それは今に結びついてるんですね。すべて声だけの曲、1人で何重にも録音するというのを、自分の音楽性の中でやれたことで、80年代後半には『Sincerely』(1989年12月)での「In The Precious Age」でのアカペラに繋がり、その後にアカペラアルバムも作るモチベーションに繋がっていきました。その辺りから、スタジオシンガーだった子供時代から得てきたノウハウを自分の音楽に改めて取り入れるようになった感じはありました。もちろん、ハードな曲はよりハードになりました。その頃に盛り上がりつつあったLAメタルじゃないけど、多少、当時のシーンの影響を受けたような気はします。

――このアルバムから、B'zを始動する前の松本孝弘さんがギターを弾くようになりました。

浜田:それもよかったですね、今から考えると。

――よかったというのは?

浜田:当初は北島さんから変わるのが嫌だったんですよ。北島さんと仲良しだったわけではなかったですけど、すごくいいギターだなと思ってたので。でも、ビーイングの強力なプッシュで(笑)。そのときの私はまだ新人の松本さんを知らないわけですよね、どんなギターを弾くのかも。だから、完全に一時はへそを曲げてました。でも、そこから松本さんと頻繁に会って、コミュニケーションを密にとるようになって、彼の本気度が半端ないということに気づいたんです。そこからはスパンと気持ちが切り替わりました。

――『RAINBOW DREAM』の発表以降、本格的な全国ツアーを行うようになっていきますよね。ちょうど1985年に『MAGICAL MYSTERY “MARI”』というライブアルバムとビデオもリリースされています。

浜田:そのぐらいから、1ツアーで40本とか、かなりの本数をやり始めたんですね。そうなると、やっぱり喉のキープとの闘いでしたよね。まだ若かったですし、誰もアーティストケアみたいなところに気を向けてくれないような時代でしたから、3日連続でライブやって、1日休んで、また2日連続みたいなツアーの組み方で。そういう闘いがなければ、とても楽しい日々のはずなんですよ。人前で演奏して、バンドのメンバーとも和気あいあいで。ボーカルは一番大変ですよね。ドラマー以上に。特にこういう歌唱法ですし。こういった歌唱じゃなければ、10日連続とかでもできるんですけど(笑)。

『Blue Revolution』

――それもまた凄い話ですけどね(笑)。1985年12月には5枚目のアルバム『Blue Revolution』がリリースされますが、10月には初のシングルとして『Blue Revolution』が先駆けて発売された。これも新たな試みでしたよね。

浜田:そうですね。そろそろ名刺代わりになるようなシングルを出していきたいということを、スタッフからも言われてましたし。

――それまでシングルリリースがなかったのも意外です。

浜田:アルバムでいくというのが一つの戦略ではあったと思うんですけど、「3枚目のアルバムぐらいからシングルも!」っていう要望はビクターからもあったと思いますし、実際にそれまでもトライはしてたんですけど、あまり上手くいかなくて、やっと「Blue Revolution」でいけるのかなぁみたいな感じでしたね(笑)。でも、当初は今も代表曲として残るようなものになるとは思ってなかったかもしれないです。

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――2018年にリリースされたベスト盤『Light For The Ages -35th Anniversary Best〜Fan's Selection-』の編纂に際して行われた人気投票でも1位でしたよね。この曲をシングルに選んだのは麻里さんなんですか?

浜田:はい。松澤さんや河野(陽吾)くんがすごく貢献してくれて。その頃はMAKE-UPとべったりというか、かなり助けてもらいました。実は結構有名なアレンジャー/作曲者の方に、1回シングル曲を作ってもらったことがあったんですけど、それを私が無理やりボツにしたことがあったんです(笑)。『MISTY LADY』の頃にシングルをどうしてもリリースしたいという話になって、その方が手を挙げてくださったんです。一応歌詞も書いて、でき上がった曲に対して「この曲は私じゃないな」と。ただ、普通はボツにできるような人ではなかったので、スタッフからはそのまま何とかいけないかと説得されました。でも、申し訳ないけどやめさせてくださいと。レコーディングも終わっていたんですけどね。

――普通なら押し切られますよね。

浜田:そうですね。だから、やっぱり身内で作るのがいいなと思って、「Blue Revolution」を最初のシングルにしました。

浜田麻里「Blue Revolution」

――このアルバムは表題曲「Blue Revolution」も象徴的ですが、個人的には「Helter Skelter」(The Beatles)と「What About Love」(Heart)のカバーもすごく記憶に残っています。

浜田:「Helter Skelter」は元々すごく好きな曲でしたし、デビュー前に録音したデモテープでも歌っていたんですね。ディレクターからも「いいんじゃない?」っていうことで、そっちはすぐ決まったんです。ただ、「What About Love」は結構悩んだ気がします。今、印象に残っていると言われたので言いにくいんですけど(笑)、自分の中でレコーディングの過渡期でもあり、早く完成させなきゃいけないスケジュールなどもあって、最終的にカバー曲で埋めようみたいなところはちょっとあったと思います。

『PROMISE IN THE HISTORY』

――ええ。それは存じております(笑)。続く『PROMISE IN THE HISTORY』(1986年9月)は、『Blue Revolution』と比べても方向性/音楽性に変化が出てきたような印象があります。

浜田:より自分に近くなっていってたとは思いますね。松本さんのギターが冴えるハードアルバムですが、歌モノになっていったというか。片山(圭司)さんはデビューのときからずっと一員として頑張ってくれてた人なんですけど、『PROMISE IN THE HISTORY』のときに、やっとお名前を前面に出させていただくようになりました。代表曲も残りましたし、内容的には自分も結構気に入ってるアルバムですね。ただ、その時点では、「もうアメリカだな」って思い始めてて。その意味では、『Blue Revolution』の後ですぐ環境を変えようか、それとももう1枚日本で作るのか、そんな過渡期に制作した1枚だったと思います。

――実際に次作『IN THE PRECIOUS AGE』(1987年9月)からはガラリと制作環境が変わって、ロサンゼルスで現地のミュージシャンを起用してレコーディングを行うようになりました。そこはまた次回にお話をお願いします。

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