【浜田麻里 40周年インタビュー】第1弾:“ヘヴィメタル”を掲げて鮮烈なデビュー 音楽性の確立やイメージとの葛藤、伝説の『MUSIC WAVE 84』まで振り返る

浜田麻里 40周年インタビュー第1弾

『MUSIC WAVE 84』全国放送が“ヘヴィメタルクイーン”への転機に

――『MISTY LADY』が出る頃には、いわゆる日本のヘヴィメタルシーンの中では、浜田麻里は確立した存在になっていましたよね。麻里さんと同じく、1983年からいろんなバンドが続々とデビューしていきましたから。

浜田:私のデビューの同年に、EARTHSHAKERや44MAGNUMが出てきて人気を博して、ライブなどで一緒になることが多かったんですよね。そこでみなさんが私の存在を大切にしてくださり、それがリスナーの人たちにも伝わっていったこともあって、やらされてるシンガーではないんだろうなっていうのがだんだん理解され始めた、そんな時期に入っていきました。印象的だったのは当時、『MUSIC WAVE 84』というイベントがあって。

――1984年7月に日比谷野外大音楽堂で開催された『MUSIC WAVE 84』(浜田麻里以外にはEARTHSHAKER、44MAGNUM、アン・ルイス、MAKE-UPが出演)ですね。

浜田:はい。それがNHKで全国放送されて、一気に流れが変わった気がします。先輩に当たる女性シンガーとか、面識がないようなミュージシャンからメディアで大っぴらに悪口を言われたり、いろいろ理不尽なことも多かったんですけども……。言われやすいタイプだったんだと思います、どこか弱くて。

――『MUSIC WAVE 84』では麻里さんがトリの位置で出演したのも象徴的ですが、当初はEARTHSHAKER、44MAGNUMのどちらがトリを務めるのかと論争になって収拾がつかなくなったものの、麻里さんがトリならという話で双方が納得したと伺っています。それも言い換えれば、そう扱うに相応しいミュージシャンとして、身近なところではすでに認められていた証でもあると思うんです。

浜田:どうなんでしょうねぇ。そこに落としどころを作るしかなかったんだと思いますけど(笑)。とにかく身近な男性バンドだけは、私に優しくしてくれましたね。その頃から、ようやく“ヘヴィメタルクイーン”と言われるようになってきたんです。それまではそういう言われ方はしてなかったんですよ。

――そう呼ばれることに対しては、麻里さん自身はどう感じていたんですか?

浜田:もちろん、今に至るまでずっと誇りに思ってます。でも当時、自分は結構無理してたところはありましたね。髪を立ててみたり、ライブのときは化粧を派手にし始めたり。みんながわかってくれる糸口を掴むために、多少は歩み寄るべきなんだろうなって。そんな感じが5枚目(『Blue Revolution』)ぐらいの頃を中心にあったんですよね。だからちょっと見た目が派手になった時期……でも、あの一時だけだと思うんですけどね、ああいった見せ方をしていたのは。

――時代の流れではありましたね。いわゆるLAメタルのムーブメントがあり、ビジュアル的に華々しいバンドが世界的にどんどん台頭していましたし。

浜田:それもありますね。当時、ショックだったことがあって……ファンの集いみたいなものが原宿のラフォーレであったんですね。そのときに、たまたまなのかわからないけど、高校の同級生の男の子とばったり会ったんですよ。そこで「変われば変わるもんだな」って冷たく言われたんです(笑)。その言葉に「あれ? 自分ってすごく変わったのかな?」って、我に返ったことがあって。だから、それは記憶に残ってるんですよね。バンドは高校生のときからやっていたにもかかわらず、そう言われたんです。

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――あくまでもステージなどに向けたビジュアルを目にしての判断でしょうからね。

浜田:そうですね。まぁ、人前に出るときは、その頃流行ってた若干毒々しいようなタイツを履いたりとかし始めてたので(笑)、確かに以前とは違いますよね。

――その点に関して言えば、あの頃は浜田麻里になりたい女子がいっぱいいましたよね。

浜田:いましたね。みんな同じような髪型で、同じような格好をして。ちょうどポイントの世代の人たちはみんなそれを知ってくれてるんですけど、ちょっと世代が離れると、私に対するイメージは違うと思いますね。

――そうでしょうね。ある種、社会現象的な認知のされ方がされていたと思います。

浜田:その後にメディアを巻き込んで時代を一世風靡したような女性歌手ほどのレベルではないにしろ、限定的な世代では、そういう認知のされ方もあったと思います。コピーバンドとかもたくさんいましたし。

――ええ、コピーバンドの演奏で、初めて浜田麻里の曲を知ったというケースも多かったと思いますよ。

浜田:そうですね。けど、その後、世間のへヴィメタルブームが一気に落ちましたよね。聖飢魔ⅡとかANTHEMとか、今も頑張っているバンドもいますが、一過性のいろんなバンドがどんどんデビューして飽和状態になり、それが1回壊れて、ヘヴィ系の人たちが馬鹿にされるような時代に入っていって。

――ヘヴィメタルは時代遅れ的な見え方ですよね。

浜田:やっている本人たちも本質から心が離れてしまうような、流行の変換時期でした。私は孤軍奮闘していたものの、実は崩壊をとっくに予期していたんです。アルバムを出すごとに、ファンの人は少しずつ少しずつ増えていった中、当時の事務所を何とか離れないとこの先の自分はないと確信したので、離れるための方法をいろいろ考えていた最中、ビクターが助けてくれたんですよ。ビクターに、(浜田麻里をマネジメントする)子会社を作ってもらって。だから、やっぱり恩返しをしていかなきゃいけない。それも私の命題の一つになりました。もちろん、やりたくない音楽をやったという話じゃないですよ。そういう地盤と、みなさんが私を単なるヘヴィメタルシンガーではなく、浜田麻里としてだんだんに覚えてくださっていたのと、それに加えて、アメリカに行ってみて、TOTOのメンバーとかマイケル・ランドウにかなり影響された。そういったことが全部重なって、「Return to Myself 〜しない、しない、ナツ。」(1989年4月)の時代に突入していくわけなんですよ……話がずいぶん先にいっちゃいましたね、すみません(笑)。

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