Lucky Kilimanjaroのダンスミュージックに宿る“エモさ”の正体 曖昧な言葉の裏にある多様な感情を肯定する姿勢
エモい、という表現をよく耳にするが、私は普段、あまりこの表現を使わない。自然と出てくるほど自分にとって馴染みのある表現ではないのだ。そんな私だが、最近、Lucky Kilimanjaroの熊木幸丸が『POPEYE Web』での連載コラム内で書いていた「エモい」という言葉の彼なりの定義を読んで、「なるほど」と思った。以下に引用する(※1)。
嬉しい。悲しい。辞書で引くと、感情が言葉として定義されています。しかし私たちはそれぞれ違う毎日を生きています。それぞれの身体を通して出てきた感情には、それだけが持つ色、におい、音、感触があるはずで、それは言葉だけでは簡単には説明しきれないものです。また、色々なものに触れることができる現代ですから、その分多様性は増しています。今日生まれたこの感情は歴史上初、私だけのオリジナルなのです。
「エモい」という曖昧なままでいられる言葉が使われるようになったのは、こういったオリジナルな感情が言葉では定義できないということの裏返しなのではと思っています。
(『POPEYE Web』コラム「【#3】エモいのため」より抜粋)
往々にして言葉が曖昧になることを人は嫌う。曖昧さは不安を連れてくるからだ。納得できるようにハッキリと物事を説明されないと安心できない人は案外多いのである。しかしながら、熊木は「エモい」という表現の曖昧さの裏に、この時代を生きる人々の多様化した生活や感情の在りようを見てとっている。そこにあるのは曖昧さではなく、むしろ「今」という時代を生きる人々のリアルを見定めようとする、作家としての明晰な視点といえるだろう。「本当のことは言葉にしづらい」ということを彼は知っている。そしてそれゆえに、時代と共に言葉は変化していく、ということも。かつて「エモめの夏」という曲も作った熊木だが、2021年のアルバム『DAILY BOP』リリース時、彼はこんなふうに語っている(※2)。
「とにかく、今の言葉で、今のダンスミュージックを作りたいんです。なので、固有名詞も恐れず使うし、「エモめの夏」なんて、「エモい」という言葉があと何年通じるのかももわからないですよね。でも、長いスパンを見越して歌詞を書いたとして、それによって抽象的になりすぎてしまうのが嫌なんです。表現のリアリティが薄まってしまうのが嫌だし、その「匂い」の薄さが嫌だ。それなら自分は、10年間新しい曲を書き続けていたいし、その時々の「今」の音楽でありたいなと思う。その刹那的な感覚が、自分には合っているんだろうなと思うんです」
ダンスミュージックの刹那性を、瞬間的な快楽として消化するだけでなく、「時代」を捉える眼差しにも変換してみせる、彼らしい創作論である。そして、「明確な言葉では定義できないオリジナルな感情=エモさ」という方程式をこの時代の前提とするなら、ラッキリの音楽は、常に「エモさの肯定」であり続けてきたとも言える。誰もがその人だけの「生」を、「エモさ」を、謳歌してほしい――ラッキリによる独自のダンスミュージックの追求の奥には、そうした願いが常にあり続けてきたように思えるのだ。