『マツコの知らない世界』で“ガールズバンド”特集 SHOW-YA、チャットモンチー、BAND-MAID…ドメスティックな進化の歴史

 もちろんそれ以前、2000年代以前にもガールズバンドという言葉自体は存在していたが、それほど浸透していなかった。当時を知る音楽ファンにとって親しみのある呼称といえば、“ギャルバン”や“レディースバンド”だろう。その筆頭格は言わずもがな、SHOW-YAである。

SHOW-YA - 限界LOVERS (DVD「大復活祭」より)

 SHOW-YAがメジャーデビューした1985年は、まだ世間的に女性バンド自体の認知度も低かった。ジョーン・ジェットにリタ・フォードという、のちのロックシーンに名を残す2人のギタリストが所属していたアメリカの女性バンド、The Runawaysは日本で人気を博したが、音楽誌よりも週刊誌やグラビア誌で取り上げられることがほとんどで、“セクシーアイドル”として扱われていた節もある。そうした時代のなか、所属事務所もレコード会社も、SHOW-YAの売り出し方を試行錯誤していた。元々は寺田のソロとしてデビューを画策していたが、本人の強い意向でバンドとしてデビューした経緯もある。清楚を売りにして白い衣装を纏って歌う寺田の姿は、『マツコの知らない世界』でも流された。

 反面で同時代は、ジャパメタブームを牽引した<ビーイング>から「麻里ちゃんは、ヘビーメタル。」のキャッチコピーとともに、浜田麻里がLOUDNESS樋口宗孝プロデュースによってデビュー(1983年)。本城未沙子、橋本ミユキ、早川めぐみといった「H.M」へヴィメタルイニシャルのメタルクイーンの登場によって、女性ロックボーカルの存在が大きく広まっていく最中でもあった。しかし、そうした女性シンガーのバックを務めていたのは、X-RAYやAROUGEという実力派男性バンドであった。そこに風穴を開けたのがSHOW-YAである。

 五十嵐☆sun-go☆美貴(Gt)のエッジの効いたサウンドと華麗なプレイ、仙波さとみ(Ba)の豪快なピッキングで支えられるボトム、ツーバスセットの女性ドラマーは角田"mittan"美喜(Dr)が先駆けではないだろうか。そして、シンセサイザーの広がりのあるサウンドが注目を浴びつつあった時代に、古き良きハードロックスタイルのオルガンを踏襲するようなテクニカルな鍵盤奏者としての、中村"captain"美紀(Key)の存在は凄まじかった。こうしてSHOW-YAは男性優位のバンドシーンの中で、闘いながら実力派女性バンドとしての地位を勝ち取っていったのだ。そして、「限界LOVERS」(1989年)の大ヒットによって、人気は不動のものとなった。

 1991年にリリースされたアルバム『HARD WAY』は先のヒットを経て、王道的なHR/HMからブルージーなナンバーまで、バンドとしてさらなる飛躍を見せた大傑作だ。しかしながらこの作品を最後に寺田はバンドを脱退。残されたメンバーは新しいボーカルを迎えて活動していくが、1998年に活動を終了した。

 『マツコの知らない世界』では“SHOW-YA vs プリプリ論争”と取り上げられていたが、ハードで硬派な音楽性を貫いたSHOW-YAに対し、ポップなガールズロックで人気を博したプリンセス プリンセスは、そのビジュアルも音楽性も相反するところから、対照的なライバルとして扱われることが多かった。実際にそれぞれのファン同士がいがみ合っていたことも嘘ではない。しかしながら、プリンセス プリンセスもまた事務所のアイドル的な売り方に疑問を持ち、闘ってきたバンドである。そうした共通項もあり、両バンドは親交が深く、SHOW-YAの主宰する女性ミュージシャンのみによるロックフェスティバル『NAONのYAON』のトップバッターは、毎度プリンセス プリンセスが飾っていた。加えて、両バンドの代表ヒット曲、SHOW-YA「限界LOVERS」(1989年2月1日リリース)とプリンセス プリンセス「Diamonds」(同年4月21日リリース)はリリース日も近く、両曲ともに笹路正徳のプロデュースであることも興味深い。

プリンセス プリンセス 『Diamonds <ダイアモンド>』

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