米津玄師「馬と鹿」がリスナーに提供するドラマとカタルシス リズムから楽曲を分析

 9月11日にリリースされた米津玄師「馬と鹿」。TBS系日曜劇場『ノーサイド・ゲーム』の主題歌であり、すでに公開されているミュージックビデオでも話題を呼んでいる一曲だ。ひとり語りのラジオも公開されており、なにしろ語りどころの多い作品だが、本稿では楽曲自体の魅力に注目する。

米津玄師 MV「馬と鹿」Uma to Shika
米津玄師『馬と鹿』

 イントロこそエイトビートでエレキギターが刻まれ、オーソドックスなロックバラードを思わせるが、ストリングスのアンサンブルと地を打ち付けるようなリズムが一気に壮大な世界を展開する。冒頭からのワンコーラスだけとってもスケール感の大きさは相当なもの。進行するにつれて楽曲は静かに高揚していき、ラストに挿入された不協和音を奏でるストリングスのグリッサンドで緊張が最大限に高められたのち、楽曲が終わるとともに一気にカタルシスが訪れる。

 そういえばこのグリッサンドは「海の幽霊」でもここぞというタイミングで登場する。ここ数作の米津の楽曲は、室内楽の響きを自身の持つロック的もしくはR&B的な語彙のなかにうまく溶け込ませることで、格段に表現のニュアンスが多様に、ときにダイナミックになってきている。「海の幽霊」「馬と鹿」ののち、どのような作品(特にアルバム)を披露してくれるかの期待は高まるばかりだ。この点は、双方にストリングスアレンジメントとしてクレジットされている坂東祐大(及び、彼が代表をつとめ、両作で演奏としてクレジットされているEnsemble FOVE)の貢献も大きいだろう。ちなみに坂東はFoorin「パプリカ」の米津によるセルフカバーにも共編曲者として参加している。

 閑話休題。先に述べたように、この曲最大の魅力は、泣けるメロディがあるとか、共感できる歌詞があるとか以上に、楽曲を通じて張り詰めてゆく緊張から、ついに解放されるカタルシスだと思う。そうした構成を裏付けるかのように、2度目のBメロから三連符を含むボレロ的なスネアドラムのパターンがコンスタントに奏でられる。単純に比較はできないものの、リズムパターンもふまえればラヴェルの「ボレロ」を連想させる。

 リズム、という点で言うと、ちょっと奇妙なのはAメロだ。

 なにも考えずに聴くと、Aメロは半小節前に食い込んで始まる(いわゆるアウフタクト)。わかりやすく言うと、〈歪ん…〉までがアウフタクトで、小節の1拍目が〈…で〉という具合だ。しかしそのようにリズムをとって聴き進めると、Aメロの末尾(〈生き足りないと強く〉)がやや尺足らずに切り上げられ、Bメロ(〈まだ味わうさ〉)の頭でまた半小節ズレたかのように感じられる。最初のサビが終わってからの間奏を経て、2度目のAメロに入るところや、再度Aメロが終わってBメロに入るところも同様。

 とはいえこれはあくまで聴いた感じの話。楽曲全体を俯瞰すると一貫したリズムを持っている。わかりやすいのは最初のサビから登場する「ずんっちゃっ、っずんちゃっ」というリズムだ。登場してから最後までほぼ鳴り続けるこのリズムに注意すると、「同じリズムがキープされているのに、歌がつくりだす拍節感によってリズムの聴こえ方が変わる」という現象がおこっているのがわかるはず。具体的には、サビやBメロでは「ずんっちゃっ、っずんちゃっ」と感じられるリズムが、Aメロでは「っずんちゃっ、ずんっちゃっ」と前2拍と後2拍が入れ替わっているように聴こえる。実際は淡々と同じパターンを繰り返しているのだが。

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