Cornelius、「サウナ好きすぎ」に内在する“ヒューマニズム” 『Mellow Waves』との共通点を考察

 2年前、Corneliusのアルバム『Mellow Waves』を聴いて、筆者はBibioの作品……わけても『A Mineral Love』(2016年)を思い出していた。その次に浮かんできたのはCaribouの『Swim』(2010年)。そして、そこからさらに想像を巡らせてたどり着いたのはピーター・アイヴァースとニック・ドレイクで……というちょっとした連想ゲームを一人でしていたのだが、その時改めて気づいたのは、なるほど、Corneliusは歌に対してシャイで粋な歌い手なんだな、ということだった。

Cornelius 『あなたがいるなら』If You’re Here

 粋な男……というと、アルバム『Fina Estampa』(1994年)の日本タイトルさながらにカエターノ・ヴェローゾを思い出す人もいるだろうが、実際に『Mellow Wave』での小山田圭吾のボーカルからはトロピカリズモ時代のカエターノも彷彿とさせる。まろやかでコクがあって、熟した果実を手でそっと割った時のような手応えがあって。もちろん声質やレンジはカエターノとは全く違うが、例えば目の前のロウソクの灯を消すことなく、丹念に息を吸ったり吐いたりしながら言葉をメロディに与えていくことに挑んでいるような感じ、と言ってもいいかもしれない。それでいて冷めているわけでもなくむしろ静かな情熱を孕んでいる。こうした歌の源泉をどこに求めるかは難しいが、Caribou、Bibioあたりまでをも含むこうした歌の系譜は、例えばジャン・コクトーが言うところの「内面のスタイル」を音声として表出させた、さしずめインヒアレントボーカルミュージックと言っていいのではないか。小山田圭吾はそんなインヒアレントボーカルミュージックの現代最高峰だと認識する。

 もっとも、『Mellow Waves』で突然に小山田圭吾が歌への軸足に寄せたとは思わない。『Point』(2001年)、『Sensuous』(2006年)と2000年代以降もスローペースながらも力を注いで制作されてきたCorneliusの作品は、サウンドプロダクションの断面こそ異なってはいたし、都度都度の処理や加工が施されてはいたものの、彼が歌を放棄したことは一度もなく、それどころか、歌い手としてのフォルムには一切ブレがないまま。ブライオン・ガイシンやウィリアム・バロウズさながらのカットアップ手法で繋いだような歌詞ゆえ、例えば『Point』のおおかたの曲では歌詞のすべてを瞬時に聴き取ることは難しいが、水の音に始まる「Drop」などは軽快なアコースティックギターとリズムの合間からしっかりと〈なでる 投げる/跳ねる 投げる〉という単語がハーモニーとともに伝わってくる。音声としてではなく、肉声としての表現がちゃんとそこにある。

 『Mellow Waves』ではもともとがそうしたブレないインヒアレントボーカルミュージックであってきたことに加え、さらに感情の起伏のあるメロディが備わったことで、「うたもの」という側面が強調されることとなった。なかでも、Savath & Savalas(ギレルモ・スコット・ヘレン!)を想起させるアブストラクトスパニッシュ的な「The Rain Song」。内在する確固たるスタイルを抽象的表現で美しく昇華させたこの曲は、ボーカルからエゴを極力取り除いた末に、それでも絶対に残るヒューマニズムを主題としたような曲だ。そしてこれは、同じヒューマンな側面を持つ『Point』の「Drop」と呼応したような関係にあるのでは? と想像する。そういえば、この2曲は奇しくも同じ水や雨がモチーフ。小山田圭吾にとっては、確かな形状を持たず、流れたり滴り落ちては目の前から消えていく液体という存在は、彼自身のボーカルのフォルムに近いものとして捉えているのかもしれない。

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