乃木坂46、グループが育んできた基調とは ドキュメンタリー映画が映すメンバー同士の愛着
そもそも、ドキュメンタリー映画第1作である2015年の丸山健志監督作『悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46』(以下、『悲しみの忘れ方』)から、乃木坂46は「戦場」としてのアイドルシーンを相対化するような存在としてあった。メンバーの「乃木坂46以前」すなわち一般人としての視線に軸が置かれた『悲しみの忘れ方』でみられたのは、アイドルシーンを半ば異界のように捉え、「戦場」への違和を示してみせる乃木坂46メンバーの姿である。そして、やがて乃木坂46はその延長線上に、「戦場」への素直な順応とはいくらか異なるスタイルで自らのブランドを築く。それゆえに、本作『いつのまにか、ここにいる』で彼女たちを物語るのはやはり劇的な事件ではなく静謐な円陣の瞬間であったし、「仲の良さ」というきわめて日常的な場面に看取されるものが一大テーマとして浮上する。
もちろん、2015年のドキュメンタリー第1作と本作とをつなぐ数年間のあいだに、彼女たちの立場はそれこそ劇的に移ろっている。『いつのまにか、ここにいる』では前作を踏襲するように、メンバーが故郷へ帰還する姿に密着している。しかし、前作においてそのパートは彼女たちが「一般人」としての視野を持っていることを浮かび上がらせる効果を持っていた(だからこそ、ナレーションが一般人としての「母親」目線であることに大きな意味があった)のに対し、本作では巨大な有名性を持つ芸能者として故郷に対峙せざるを得ない。故郷への帰還パートは、彼女たちを取り巻く環境が決定的に変化したことを示す象徴的場面でもある。
しかし、そうした圧倒的なメディアスターの立場を背負いながらなお、この映画が帰着するのは、メンバー同士の愛着という、日常のありふれた瞬間に見出される慈しみ合いである。集団によって絶えず生成される群像劇は、グループアイドルのコンテンツの大きな柱となる。けれどもそれは、社会的にインパクトの強いイベントや過剰な負荷を引き受けるような試練そのものを主役にしたドラマである必要はない。なにげない生のいとなみを互いに尊び、慈しみ合うこと自体によっても、群像劇としての表現は豊かに生まれうる。岩下が模索しながら探り当てたのは、そんなグループアイドルの現在形である。
■香月孝史(Twitter)
ライター。『宝塚イズム』などで執筆。著書に『「アイドル」の読み方: 混乱する「語り」を問う』(青弓社ライブラリー)がある。