湯浅学が語る、遠藤賢司という存在の独自性「純音楽家は自分を磨くことに邁進するかどうかが問題」

 1969年のデビューから、2017年に亡くなるまでの48年の間に、インタビューで語ったことや、文章として書いたものや、歌詞など、つまり本人の言葉を集めて編纂することで、遠藤賢司という偉大なる純音楽家が、どんな思想を持ってどのように生きたのか、その生き方で何を伝えて来たのか、そして今に何を遺したのかを、描いた本。それが、没後1年を経て刊行された『現在(イマ)ここで、ちゃんとやれ! そして、夢よ叫べ』である。本書を監修した音楽評論家、湯浅学に、この遠藤賢司にとって初めての著書について聞いた。(兵庫慎司)

インタビューをするはずだった日が、命日になった

遠藤賢司『現在(イマ)ここで、ちゃんとやれ! そして、夢よ叫べ』(リットーミュージック)

──この本を出そうという話は、いつ頃からあったんですか?

湯浅:2017年の春頃かな。発起人はこの本の版元(リットーミュージック)の編集者なんだけど……俺は、エンケンさんには、ものすごく大きな借りがあるんで、やれと言われればやらざるを得ない状況で。もう20年前になるんだけど、エンケンの本を作ろうと思ったのね。それで作り始めたんだけど、結局うまくいかなくて、頓挫しちゃった、ということがあったんです。

 『エンケン大百科』っていう、活動を全部網羅するみたいな、ものすごくでっかい本を作ろうと思って。その時にある程度作業をしたから、1999年までは資料をまとめることができていたの。1年ごとに写真を袋詰めして、あらかたのブツをデータ化するところまではできていたんだけど、そこからうまくいかなくて、ここ10年ぐらいは、うやむやなまんまにしちゃっていて。エンケンさんに会うたびに謝る、みたいな状況が続いてたんだけど。

 そういうこともあって……この本は、今までエンケンさんはいろんなことを語っている、それを若い人に向けてまとめたい、っていう企画だったから。俺がエンケンさんを初めて聴いた中学3年、15歳くらいの人から、20歳ぐらいまでの人を読者対象とする本を作りたい、っていう申し入れだったの。あとは、芸術や音楽の道を志す人たちの背中を押すような本になればいいなと。エンケンさんも「それはぜひやってほしい」って。とにかく、遠藤賢司の単著がないわけよ。

──あ、まったく?

湯浅:ないんですよ。でも、文章はたくさん書いているし、発言もたくさんしているから、そういうものをまとめる、しかもマニア向けじゃなく作るっていうのは、意義があることだと思って。エンケンさんって、なんでも取っておく人だから、これまでのインタビューも全部あるし、未発表のインタビューもあったし。それを組み合わせて、ひとつの流れを作っていこう、っていう。

──その上で、新しいインタビューを追加しようという予定だったんですか?

湯浅:エンケンさんの体調のこともあって、そんなに長時間はインタビューできないだろうと思ったから、今まであるものをある程度まとめた段階で、不足してるところを補うようなインタビューをしようと考えていて。エンケンさんのお誕生日、2018年の1月13日を想定発売日にして、夏頃から「このへんとこのへんの話が足りないからインタビューしたいです」って言ってたの。

 そしたら、2017年7月、8月は比較的体調がよかったんだけど、9月になってから少しずつ、つらい日も多いっていう状況になって。でも9月から新しいアルバムをレコーディングするっていうことになっていて、スタジオも一回入ったりしてたのね。それにくっつけてインタビューの日を設けたらどうかっていうことで、10月25日というスケジュールが出たんだけど、結果的に、その日が命日になってしまったんだよね。

──それ以降の編集作業は、どのように進められたんですか?

湯浅:エンケンさんが亡くなってしまったので、いったんそこで止めざるを得なくて。で、雑誌とかで追悼号がいくつも出たり……雑誌は、その編集者の考えに沿って、原稿を書くなり編集するなりすればいいけど、これはエンケンさんの本だから。エンケンさんが何を言ったかをまとめる、っていうことを守っていくしかないので。あちこちのそういうエンケン追悼プロジェクトが、いったん収束してから、この本の作業に戻った。

 あと、作っていくうちに「これも入れた方がいいんじゃないか」っていうものが出て来るわけですよ。それから、エンケンさんの奥さんが家で掘り起こした、すごいプライベートなものもあるわけ。そういうのも調整しながらやっていったから、作りながらじゃないと、全体像が見える時期がなかなか来なくて。

 それから、エンケンさんのブログがあるでしょ。ブログの文体だからそのままでは使えない、だけどすごく重要なことが書いてあったりするので、拾ってきて文章の形を直すとか。病床メモみたいなのがあったから、それも入れたし。それに、エンケンさんってライブの時に、曲目表を詳しく作る。MCで言おうと思ったこともメモしてあったりするわけ。それ、歳とってからどんどん増えていったんだよ。そこからおもしろいところを抜粋して、入れていったりもした。

エンケンさんはいちばん超党派だった

──湯浅さんが15歳で遠藤賢司を知った、その最初はどんな出会い方だったんですか。

湯浅:最初はラジオかな。ラジオで「カレーライス」を聴いた。おもしろい歌だなと思ってたら、テレビでも観たんだ。それで、すごいかっこいい人だなと思って。1971年の11月かな。見た目もかっこよかったんだけど、声とか、ボソボソしゃべる形もすごいよくて。その時に「雪見酒」をやった、と、俺は記憶してるんだけど。それですごい気になったから、『満足できるかな』を買いに行ったの。それまで知ってたフォークの人っていうと、吉田拓郎と、岡林信康と、高田渡とか五つの赤い風船とか、あとフォークじゃないけど浅川マキとかが、ラジオでよくかかってたんだけど。

──そういう中にあって、遠藤賢司はどういう存在だったんでしょうか?

湯浅:エンケンさんはいちばん超党派だったんだよ。どっちにも触れるんだけど、どこにも属してない感じ。あと俺、はっぴいえんどとエンケンさんを同じ頃に発見するんだけど、はっぴいえんどを聴くと、エンケンさんのバックをやってるってわかったりするじゃん。エンケンさんとはっぴいえんどが、ライブを観に行きたいと思った初めての日本人で。雑誌にライブの情報が載っていて、1972年の4月に、エンケンとはっぴいえんどが出る日比谷野音でのコンサートを観に行った。オープニングアクトがRCサクセションだった、3人の頃の。

──うわ、すごいライブですね。

湯浅:あとで知ったんだけど、エンケンさん、『さすらい』っていう映画に出ていたりとか。あとNHK教育テレビの『若いこだま』に出たりとかもしていて。

──じゃあ当時はメジャーな存在だったんでしょうか。

湯浅:メジャーという感じではないです。一時期は井上陽水より売れてたけど。そういう意味ではエンケンさん、露出多かったほうじゃないかな。ああいう人は、当時からほかにいなかったしさ。フォークだけどフォークじゃない、みたいな。

遠藤賢司にブランクはなかった

──湯浅さんが仕事として接点を持つのは、いつ頃になるんでしょうか。

湯浅:ずーっとあと。エンケンバンド(遠藤賢司バンド)を始めてからだから、1988年かな。一時期、エンケンさん、レコードを出さずにライブだけやっていて。っていうのは知ってたんだけど、観に行ってない時期が何年かあったんですよ。そしたら、俺の友人の根本敬が、知り合いの結婚式に行ったらエンケンさんが主賓で来ていて、座敷で、エレキギターとアンプを持って来て「東京ワッショイ」をやった、それがすごくよかった、その時「バンドを作った、今度ライブやるから来てね」と言っていた、観に行かなきゃダメだ、と。それで渋谷のジァンジァンに観に行って、すごい衝撃を受けて。「史上最長寿のロックンローラー」と、「輪島の瞳」と、「外は雨だよ」をやっていて、想像を絶する感じだった。そのことを、当時俺と根本が連載してた雑誌に書いたんだ。そしたら本人が見てくれて、「一回遊びにおいでよ」って。それで初めて会いに行ったのが1988年の7月。それからはもうずっと……エンケンバンド作ってからの一時期、東京周辺のライブは、全部行ってるから。それでだんだん、ファンっていうよりスタッフみたいになっちゃって……それからもう30年なんだね。

──ブランクの時期ってあったんでしょうか。

湯浅:ブランクはないんだよね。ライブはずーっとやってるから。でも、日本の音楽の場合、みんなそうだと思うんだけど、たとえばさ、はっぴいえんどでもフラワー・トラヴェリン・バンドでもいいけど、当時聴いてて、今でもずーっとその後、45年間聴き続けている人って、日本にそんなにいないでしょ? そういうことなんだと思う。自分で自分を聴くことを、45年間やめなかった人なんだ、エンケンって。とにかく自分が楽しくなるようにやってきた、ってこの本にも何回も書いてあるけど。それはほんとにそうで、自分が最大のリスナーなわけよ、45年間変わらずに。そん時そん時で、自分がおもしろいなと思ったことをやるっていうことに徹してた。

 だから、それは本人にとってはブランクじゃない。ただ、「レコードを作りませんか?」って言ってくれる人がいたかいなかった、っていうだけで。でもやっぱりさ、レコードを出してないと、活動してるのがわかりにくいよね。今と違うから。だって、エンケンバンドを作ったのが1988年で、そこからコンスタントにライブやってたんだけど、最初の1年はガラガラだったからね。俺が観に行ったのでいちばん客が少ない時、3人だから。それでもやり続けることで、だんだん増えていったんだ。

──湯浅さんからしても、これまで知らなかった遠藤賢司を、この本を作ったことによって知ったようなことってありました?

湯浅:エンケンさんが植木屋さんをやってたのは知らなかった。結婚する直前の話だよね。1987年とか。その話、全然聞いたことなくて、亡くなってからわかったんだ。週刊文春の「家の履歴書」ってコーナーあるじゃん。あそこでエンケンさんがインタビューを受けたのね。それが生前に出た最後のインタビューなんだけど、しゃべったけど記事には載らなかったアウトテイクの中で、その話をしていたの。インタビュアーも、エンケンさんのことを前から知ってる人だから、話したんだと思う。亡くなったあとに、そのアウトテイクを読んで知ったんだ。あれはすごいレアな話。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「インタビュー」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる