プリンスがすべてだった 宇野維正による追悼文
フェイバリット・アーティストが死んだ。ワン・オブ・フェイバリットではない。自分にとってプリンスは永遠の、これまでもこれからも自分の人生における最愛のアーティストだ。21日未明に海外からの第一報をネットで目にした時、最初は悪戯好きな彼による何か新しい仕掛けなのかと思った。昔、突然プリンスの名前を捨ててシンボルマークになってしまった時のように。それを「かつてプリンスとして知られたアーティスト」と読ませた時のように。そもそも、近年のプリンスは作品のリリースだって、ライブの告知だって、サプライズじゃなかったことなんてないのだ。冗談にしては、今回はちょっとタチが悪すぎるけれど……。しかし、精神的パニックに陥らないようにそれから半日以上すべての情報を絶って、そのあとから恐る恐る国内外のテレビやラジオに触れてみたところ、エンパイア・ステート・ビルが、ナイアガラの滝が、エッフェル塔が、グーグル社のロゴが、すべて紫色に染まっていた。ラジオでは一般的な代表曲だけでも何十曲もある彼の曲が、代わる代わるオンエアされていた。どうやら本当にプリンスは死んでしまったようだ。なんてこった。
プリンスは自分にとって、いや、自分とざっくり同世代の30代後半から50代前半くらいまでの世界中の音楽ファンやミュージシャンにとって、同時代を生きているスーパースターの一人というだけではなかった。リトル・リチャードも、サム・クックも、ジミ・ヘンドリックスも、ジェームス・ブラウンも、スライ&ザ・ファミリー・ストーンも、ファンカデリック/パーラメントも、ジョニ・ミッチェルも、カルロス・サンタナも、ステイプル・シンガーズも、あのマイルス・デイヴィスでさえも、すべてプリンスの音楽が入り口となって自分は初めて触れることになった。デジタル・ファンクという方法論も(『1999』)、ロック・オペラの楽しさも(『パープル・レイン』)、サイケデリックという概念も(『アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ』)も、ファンク・ミュージックの悦楽も(『パレード』)、すべてプリンスが教えてくれた。彼は我々世代にとってかけがえのない、音楽の深遠なる世界への導き手だった。ディアンジェロでもダフト・パンクでもファレルでも誰でもいい。この世代に豊富な音楽的素養と何よりもジャンルを逸脱するリベラルで革新的な発想を持ったミュージシャンが多いのは、みんな「プリンス育ち」だからだ。
彼の音楽にはどんなにポップで親しみやすい楽曲にも魔法が仕掛けられていた。例えば彼の(繰り返すが)何十曲もある代表曲の一つ、プリンスの曲で「セクシー・MF(マザー・ファッカー)」と並んで最もバカみたいなタイトルを持つ「レッツ・ゴー・クレイジー」。リリース当時中2だった自分は「レッツゴー!」とか「クレイジー!」とか一緒に叫んで闇雲に盛り上がるだけだったが、今ならこの曲の魔法を少しは解き明かすことができる。
イントロのオルガンの調べにのった「親愛なる者よ。今日、我々がここに集ったのは、この現世の“人生”というやつをなんとか乗り切るためだ」と始まるプリンスによる語りは、ゴスペル・ミュージックにおけるプレイズリーダーの役割そのもの。そこにニューウェーヴ風の単調なダンスビートがのっかって「もし人生のエレベーターがお前を下の階に運ぼうとするなら、クレイジーになっちまえよ! 拳を上げて最上階までぶち上がっていこうぜ!」という掛け声とともになだれ込んでいく曲の中核部は、形式的にはオールドスクールなパーティー・ロックンロールではあるが、そのメンタリティは当時のアメリカにおける類型的なパンクロックのイメージだ(当時海外の音楽メディアはプリンスを「パンク」や「ニューウェーヴ」の文脈で語ることが多かった)。やがてその曲はジミ・ヘンドリックス直系の粘っこいギターソロによってクライマックスを迎え、フィナーレは70年代的な大仰なハードロックやプログレのように終わる。つまり、プリンスはたった4分余りの曲で、ゴスペル、ニューウェーヴ、パンク、ロックンロール、ハードロック、プログレと時代を進んだり逆行したりしながら、完璧なポップミュージックとしてのフォーマットを一切崩すことなく、とんでもない音楽的体力&音楽的推進力でもってひたすら突っ走っていくのだ。こんなもん、中2で聴いたら人生狂うわ。
初めて生でプリンスのパフォーマンスを見たのは1986年9月9日、横浜スタジアムでの初来日公演だった。当時高1だった自分は、30.000人以上のオーディエンスの中でほぼ最年少だった。大人になって音楽業界に入ってから、この時(大阪城ホール2日、横浜スタジアム2日の計4日間)のライブを見た何人もの人に出会うことになったが、その中で「あれが人生最高のライブ体験だった」と言わなかった人にはこれまで会ったことがない。国内外問わず音楽業界には「あの日のシュガー・ベイブを見た人はみんな音楽業界に入った」だとか「あの日のセックス・ピストルズを見た人はみんなその翌日にバンドを組んだ」だとか、そんなライブハウス神話みたいなものがいくつかあるが、あの時のプリンスのパフォーマンスは、それと同じようなことを初めて訪れたアジアのスタジアム公演の規模で成し遂げてしまうほど神がかっていた。
スタジアムのアリーナ席には数席ごとに紫色のタンバリンが置かれていて(それはプリンスからのプレゼントで、家に持ち帰っていいものだったらしいが、多くの人がそれとはわからずライブの後に席に残していった。その頃の日本人はまだとても遠慮深かったのである)、同じく数席ごとに白と黒の風船がくくりつけられていた。シーラ・Eのオープニングアクトが終わり、スタジアムが9月の夜の闇に包まれて、1曲目の「アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ」の笛の音が鳴り響く中、「ンギャオオウッ!!!」という雄叫びとともにステージにプリンスが現れた瞬間、自分は失神した。そう、ビートルズやマイケル・ジャクソンのライブ映像とかで女の子たちが集団ヒステリーみたいになってその場でバタバタ倒れちゃうやつ。「あぁ、ああいうのって本当にあるんだ」ってことが身をもってわかった。あるんですよ、本当に。
当時はスタジアムの消防法の適用基準がまだユルかったし、なにしろその頃の音楽ファンの喫煙率は限りなく100%に近かったので、ラストの「パープル・レイン」の時には、オーディエンスが掲げた数万のライターの炎でスタジアム全体が照らされて夢のような景色が広がっていた。そのままスタジアムごと宇宙に飛んでいくんじゃないかって本気で思えた。実際に、この日のライブのエモーショナルさはちょっと尋常じゃなかったのだ。アリーナ客席からの遠目でもウェンデイとリサが泣いているのがわかったし、最後のギターソロが終わるとプリンスは下を向いてギターの6弦を全部引きちぎると、自分は涙を見せまいとステージ袖に急いで駆け出していった。『パレード』のワールド・ツアー最終日であったこの日。その時点ではなんのアナウンスもなかったけれど、それはプリンス&ザ・レボリューションの解散ライブでもあった。それがわかったのは数年後のことだ。
もちろん、その後もすべての来日公演を見てきたが、『ラブセクシー』や『ダイアンモンド・アンド・パールズ』のツアーを、東京ドームの劣悪な音響環境の中でステージから遠く離れた席で見ながら、いつの日からか熱狂的なファンとしての倒錯した夢を抱くようになった。「このままだんだんプリンスの人気が落ちぶれて、自分がすっかりオヤジになった頃に小さなライブハウスでプリンスが演奏するのをじっくりと堪能したいな」。
しかし、思いがけないことに、その夢が実現する機会は意外なほど早く訪れた。2002年に『One Nite Alone...』のツアーで6度目の来日公演が発表された時、スケジュールを見て思わず目を疑った。日本各地の大型ホールに混じって、今はもうなくなってしまった「Zepp Sendai」の文字があったのだ。そもそも『One Nite Alone...』はプリンスの本国サイトの通販でしか買えないアルバムだった(その頃にはそれが常態化していた)。そんな変則的なリリース形態の作品のツアーということもあって会場規模縮小も無理のない状況ではあったけれど、それにしたってシークレットライブ以外でスタンディングのライブハウスでプリンスが見ることができるというのは奇跡だった。
頬をつねりながらチケットを入手し、会社の有休をとって(なにしろ当時は邦楽誌の編集者だったので)、新幹線に乗って仙台に行った。会場には、年季の入った日本中のプリンス・ファンが遠征してきていた。そんな異常な熱気に包まれた会場で、さすがに「じっくりと堪能」とはいかなかった。ネックの突端が目の前1メートルまで迫ったプリンスのギターから「バンビ」のイントロが掻きむしられてからのライブ本編のことは、興奮しすぎてあまり覚えていない。だけど、何度目かのアンコールに応えて満面の笑みで袖から出てきて、ステージ前方端っこの椅子に腰掛けて最後にギター1本で歌ってくれた「ラスト・ディッセンバー」、そしてその時にみんなで一緒に歌ったライブハウス規模ならではの親密であたたかい大合唱は、マイ・ベスト・プリンス・モーメンツの一つだ。
2002年の仙台で実現した奇跡的な日本でのライブハウス公演は、その後、本当に「奇跡」となってしまう。2004年、久々にちゃんと先行シングルをリリースし、ちゃんとそのプロモーションビデオも作り、ちゃんと一般のCD販売網でリリースされたアルバム『ミュージコロジー』で、プリンスはビルボードのトップ3に返り咲いた。それどころか、リリース後のツアーの莫大な収益によって、その年のアメリカの収入ランキングのミュージシャン部門でマドンナやメタリカをおさえてトップ1に君臨した。それは、(日本よりも先に)音楽産業の中心がCDからライブへとドラスティックに移行しつつあったアメリカの音楽業界を象徴するニュースとして世界中に発信された。