プリンスがすべてだった 宇野維正による追悼文

 先日、元スマッシング・パンプキンズのビリー・コーガンは、当時レーベルメイトだった故デヴィッド・ボウイが90年代に音楽業界で受けていた冷遇について怒りの告発をしていた。「僕は覚えている。あれほどの伝説的な存在が、90年代にはレコード会社から目も当てられないほどぞんざいで無礼な扱いを受けていたんだ」。そうなのだ。当時の自分が「いつかプリンスの人気が落ちぶれたら」なんて妄想をしていたのも、90年代までは元ビートルズのメンバーやローリング・ストーンズでもない限り「どんなスーパースターでもいつか人気はおちぶれるもの」と誰もが思っていたのだ。というか、今では信じられないかもしれないけど、マイケル・ジャクソンだって90年代はひどい扱いだったし、あのビートルズだって90年代半ばのCD再発ブームがくるまでは危なかったんだぜ?

 そんな90年代を、プリンスは自身が副社長まで務めていたレコード会社からの「解放」、そして誰よりも早く自分だけの「聖域」(ウェブサイトでのCD販売、インディペンデント体制によるライブ興行、音源や動画のネット流出への厳格な措置)に引きこもることによって乗り切り、「CDの時代」から「ライブの時代」に入ったゼロ年代半ばにトップアーティスト、正真正銘のレジェンドアーティストとして華々しく大復活した。結局叶うことはなかったが、2009年にマイケル・ジャクソンが『THIS IS IT』ツアーに乗り出しそうとしていたのも、そんな盟友プリンスに刺激されてのことだった。

 2002年のあの時、最後に「ラスト・ディッセンバー」を一緒に歌って以来、プリンスは日本の地を踏んでいない。80年代後半から90年代にかけてあれだけ頻繁に来てくれていたのに、その後、来日公演が実現することはなかった。何度か実現に向けて動いているという噂を耳にすることはあったが、やはり2004年を境にプリンスのギャラの「桁」が海外と日本で変わってしまったことが最大の原因なのだろう。誰が悪いわけでもない。それは「ライブの時代」がもたらした弊害だ。

 でも、きっとまたいつかプリンスに会える日がくると思っていた。だって、プリンスはまだ57歳で、たまに「?」って作品もありはしたけれど、毎年アルバムを出していて、つい数日前までステージの上では往年のトップフォームを保ち続けていたじゃないか。自分にとってはまだ、「プリンスのいない世界」というのがどういうものなのかうまく想像できない。40代半ばで、こうしてプリンスの追悼文を書いていることにまったく現実味がない。

 初めて女の子とキスをしたその日は家に帰って舞い上がって「キッス」を聴き狂ったし、初めて風俗に遊びに行く時には自分を奮い立たせるためにウォークマンで「エロティック・シティ」を聴きながら歌舞伎町に足を踏み入れたし、渋谷陽一氏の会社に入ったのは氏がラジオでプリンスを最初に教えてくれたからだし、男の子の赤ちゃんを授かった時には「サイン・オブ・ザ・タイムス」の教えに従って寧人(もしくは寧斗)と名付けようとして周囲に全力で止められたし、西寺郷太くんに『プリンス論』を書かれたのが悔しくて、自分も初めて本(『1998年の宇多田ヒカル』)を書いて、今後も本を書き続けていく決意をしたんだった。自分にとってプリンスはすべてだ。これまでも、これからも。

 自分が死ぬ運命にある、その理由が見つかった?
 それとも、死への疑問を抱くことなく、この世に別れを告げるつもりなの?
 君の人生は思い通りのものだった?
 それとも、ずっと夢を見ているような感じだったのかな?
 最期に「神に赦された」と思うことができた?
                     (「ラスト・ディッセンバー」)

 ねぇ、プリンス。それを訊きたいのはこっちの方だよ。

■宇野維正
音楽・映画ジャーナリスト。「リアルサウンド映画部」主筆。「MUSICA」「クイック・ジャパン」「装苑」「GLOW」「NAVI CARS」ほかで批評/コラム/対談を連載中。著書『1998年の宇多田ヒカル』(新潮新書)発売中。
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